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2014年5月31日土曜日

うちの患者ですけど受け入れません

救急受け入れ38回拒否 川口の骨折女性 昨年、搬送2時間超    
2014年5月31日 東京新聞朝刊 
 埼玉県川口市で昨年二月、自宅で骨折した五十代の女性が、複数の病院から救急搬送の受け入れを計三十八回断られていたことが、県の調査で分かった。
 県によると、女性は入浴のため衣服を脱いだ際に転倒して右脚を骨折し、一一九番した。女性は悪性リンパ腫が脳に転移しており、救急隊員がかかりつけの病院に受け入れを求めたが、病院側は「ベッドが満床」と断った。ほかの病院も「女性の持病は専門外」と断り、搬送先が決まるまでに二時間二十二分かかったという。
 昨年一月には、同県春日部市の路上で動けなくなっていた八十代の男性を警察官が発見して一一九番。だが、病院から受け入れを計三十六回断られ、救急車内で五時間八分待たされた。男性が住所不定で身元引受人がいなかったことが影響したとみられるという。

▲:悪性リンパ腫の脳転移の患者を受け入れて入院させても、悪性リンパ腫に対する治療ができない病院なんてザラにあるのだから(外科整形外科病院、では無理)、受け入れを拒否するのも仕方ない。それよりも、木で鼻を括ったように「満床」という理由で患者を断る「かかりつけの病院」に問題がある。自分のところに通っている「外来治療がん患者」(保険点数の影響で、今では随分と増えている)たちが、生死の境に至っても(ちょっとした治療で乗り越えられるような場合でも)、「満床ですから」と断るのだろうか? 骨折以外でも、いろいろな合併症で入院が必要になる可能性が極めて高いことなど、最初から病院側は理解していたはず。
 私が血液内科の患者を受け持っていたのはもう20年も前のことだけど、その頃の・その病院の常識では、悪性血液疾患の外来患者が入院を必要とするようになって断る、なんてのは100パーセント考えられないことだった。たとえ満床だったとしても、どうにでもヤリクリして受け入れた。実際、他の医者たちも含めて、外来で診ている患者を「見捨てた」ことなど一度もない、というか、あり得ない話だった。
 時代は変わったのか、それとも埼玉だからなのか。

 うちの患者ですけど受け入れません、というニュースは、本田宏のところで去年あった。あの病院も埼玉県久喜市。埼玉の医療事情は、こういうものなのだろうか。

参照: http://restfultime.blogspot.jp/2013/03/3.html




2014年5月30日金曜日

パソナ人脈に安藤忠雄の名前も



http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140522/dms1405221535015-n1.htm
財界人や著名人ズラリ 隣人も知らない…パソナ迎賓館「仁風林」ルポ (1/2ページ)
2014.05.22 zakzak
 ASKA容疑者と栩内香澄美容疑者が出会った場所として、週刊誌が報じたパソナの迎賓館「仁風林」(東京・元麻布)は、東京メトロ広尾駅から約500メートル離れた閑静な住宅街の一角にある。六本木ヒルズからも近く周囲には大使館や豪邸がたたずむ。日本家屋風の門扉の周囲には木々がうっそうとし、独特の雰囲気を放っていた。

 入り口付近には、土地の由来を記した「がま池」と書かれた立て看板がある。それによると、同所には、巨大なガマガエルが出没したという伝説が残る池があったとされ、「もともとは旗本の武家屋敷が建っていた土地で、明治期には華族が所有していた」(近隣住民)という。

 仁風林のインターフォンを押してみると、応対に出た関係者らしき男性が「パソナの福利厚生施設です」と説明。続いて「週刊誌で報じられた内容は事実か」と質問すると、「報道を見ていないのでわからない。取材については差し控えさせていただきます」とだけ答えた。

 隣家に住む男性は「パソナの施設とは知らなかった。夜になると人が集まってきて、割烹(かっぽう)着を着た人が出てくるのも見た。多い時にはタクシーが10台ぐらい止まっていることもあり、料亭かと思っていた」と話す。

 関係者によると、同所は、パソナグループの南部靖之代表が財界人らを招く迎賓館としての役割も果たしていたという。

 「財界以外でもさまざまな著名人がサロンのメンバーとして名前を連ねている。建築家の安藤忠雄氏や、パソナグループ会長の竹中平蔵氏と親交の深い中川秀直元自民党幹事長。意外なところでは、二股騒動で話題を呼んだ俳優の塩谷瞬も度々顔を出していたようだ」(関係者)
 週刊誌などではASKA容疑者と南部氏の親交が報じられているが、その関係を示す動画がインターネット上に出回っている。

 動画は、2001年8月にASKA容疑者がフジテレビ系バラエティー番組「笑っていいとも!」に出演したときのもので、ASKA容疑者が座るゲスト席の後ろに、南部氏から贈られた出演祝いの大きな花輪が飾られている。動画の中でASKA容疑者は、その花輪に言及し、「南部さんには、いつもお世話になってます」と語っていた。

 また、ネット上では、この際のASKA容疑者の言動も話題に。一般的に覚醒剤を使用すると、眠気や食欲が薄れ、落ち着きがなくなるとされるが、司会のタレント・タモリに「やつれてる」と指摘され、「寝ないんですよ、オレ。(作曲に)入り込むと全然寝ないんですよ」と説明。「飯も食わない状態になっていく」「じっとしているのがいや」などと禁断症状を連想させるような受け答えをしていた。




呆れた国防大臣・小野寺五典

首相が叱責…ASKAの女に異常接近していた小野寺防衛相

 こうなると、安倍内閣の閣僚は全員通ってたんじゃないかと思えてくる。パソナグループの迎賓館「仁風林」(東京都港区)。同社の南部靖之代表主催のパーティーに、田村憲久厚労相ら現職閣僚5人が出席したことをこれまでに伝えたが、小野寺五典防衛相(54)も“メンバー”だったことが日刊ゲンダイ本紙の調べで新たに分かった。覚醒剤使用でASKAが逮捕される直前まで通っていたようだ。

 「二度と行かないように!」――ASKA事件がはじけた直後、安倍首相は小野寺大臣を呼びつけてこうクギを刺したという。パソナの迎賓館には安倍の“お友達”が何人も通っていた。小野寺が出入りしていたことは、すぐさまレーダーに引っ掛かったようだ。

 小野寺は宮城県職員から政治家に転じた。妻の父親が気仙沼市長などを歴任した地元政界の重鎮で、その地盤を引き継ぎ国政進出したが、威を借るわけでもなく、謙虚な真面目キャラに徹している。自民党の重鎮にも評判がよく、ある旧防衛庁長官経験者は「彼は安全保障をよく勉強している。将来の総理候補」と褒めていた。

 それがなぜ、政財界の怪しげな面々が集まる場所に顔を出すようになったのか。

 「小野寺大臣の目的はASKAの“愛人”栩内香澄美だったそうです。栩内は青森出身で、小野寺大臣は宮城県出身。“同じ東北出身”をアピールして接近しようとしたけど、うまくいかなかったようです」(事情通)

 シャブという武器を持っているASKA相手では、小野寺の“スクランブル”失敗も無理はない。もっとも、妻子を仙台市内に残して単身赴任中の小野寺は独り身が寂しいのか、夜の世界は嫌いじゃないようだ。昨年5月、中国の潜水艦が沖縄・久米島の接続水域内に侵入して日中間に緊張が走った夜、銀座の和風キャバクラでホステスとのひとときを楽しむ様子を「週刊文春」に報じられた。

 小野寺の国会事務所は「報道された容疑者と面識はございません」と栩内との関係を否定しつつ、「かなり以前に(仁風林に)伺ったことはありますが、最近はまったく伺っておりません」と回答した。

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/150581

▲:アスカの覚醒剤事件が発覚していなかったら、国防大臣が某国の虜になっていたかもしれない、ということなのだろうか。



韓国フェリー無謀運行が他人事ではない北海道JR



 そのうち大事故を起こすだろう。
 今でも「捏造」を続けているのである。

JR北海道の子会社、音別駅の枕木交換後のレール検査データ捏造(05/30 18:32、05/30 18:51 更新) 北海道新聞
 JR北海道は30日、子会社の北海道軌道施設工業(札幌市)が根室線音別駅構内で線路の枕木を交換した際、現場責任者がレールの検査を忘れ、さらに実施したと装うために検査数値を捏造(ねつぞう)し、JR北海道に報告していたことが分かったと発表した。
 JR北海道の西野史尚副社長兼鉄道事業本部長は、札幌市の本社で記者会見し「線路の安全確保が重要課題の中、不正があった。深くおわびする」と陳謝した。
 JR北海道によると、枕木は10日に交換したが、カーブの部分で左右のレールに設ける高低差を誤って敷設した。終了後には検査しなければならないが、現場責任者は検査の一部を失念し、さらに思い出した後も検査をせず、未実施を隠すため、うその数値をJR北海道に報告していたという。
 同14日の特殊車両「軌道検測車」を使った音別駅周辺の調査で、列車の運行停止を迫られるレベルの異常値が検出され、発覚した

▲:この腐敗した組織が、「新幹線」を動かす、というのだから、狂気の沙汰のようにすら思える。



芸能界の実力者K氏によって報道されないらしい

 以下はサイゾーのサイトからの引用。

http://www.cyzo.com/2014/05/post_17284.html

2014.05.27 火
ASKAと“ズブズブ”のパソナを守るべく、芸能界の実力者が情報操作!? テレビ各局は言いなりに……
 覚せい剤取締法違反容疑で逮捕されたCHAGE and ASKAのASKA容疑者をめぐって、芸能界の実力者がうごめいているという。
 ASKA容疑者とともに逮捕されたのは、大手人材派遣会社「パソナ」グループに勤務する栩内香澄美容疑者。2人が出会ったきっかけは、数年前にASKAのタニマチ、パソナグループの南部靖之社長が主催したパーティーといわれる。
「スポーツ新聞や週刊誌では、南部社長と栩内容疑者の“特別な関係”についても触れられています。栩内容疑者のことを、“接待要員”とする報道もありました」(テレビ関係者)
 だが、週刊誌やゴシップ誌がASKA容疑者と栩内容疑者、そして南部社長との“ズブズブな関係”を取材する裏で、ワイドショーなどのテレビでは「パソナ」の名前はおろか、南部社長の実名を報じるところは少ない。一連の薬物疑惑を暴いた「週刊文春」(文藝春秋)を番組内で使うも、「パソナ」の文字は黒塗りで消される始末だ。
 そればかりか、TBSは栩内容疑者がパソナグループではなく、カウンセリング会社の「株式会社セーフティネット」に勤務し、同社の山崎敦社長の「彼女は優秀な人材で、将来の幹部候補だった」とする“美談”を放送。別の週刊誌記者は「確かに彼女はセーフティネットの所属ですが、問題の本質はパソナグループとの関係にある。それをあえてそらそうとしている」と憤慨する。
 これに、キー局の報道番組ディレクターが重大証言する。
「実は芸能界の実力者とされるK氏が、パソナグループから世間の関心をそらせようと画策しているというんです。K氏と南部社長は昵懇の仲。いろいろほじくられるとマズイことでもあるのでしょう。だから、テレビ局のためにわざと山崎社長のインタビューをセッティングして、南部社長まで話が行かないよう仕組んだのです」
 K氏の言いなりになるテレビ局もどうかと思うが、逆を言えば“ASKA事件”に大きな闇が横たわっていることだけは間違いない。


2014.05.28 水
「これは第2の押尾事件だ!」“ASKA事件”最大の闇は六本木コネクション
「まったく無関係のように思うかもしれませんが、押尾事件の時の構図に極めて似ているんです」
 そう語るのは、薬物問題に詳しいフリージャーナリストだ。人気デュオCHAGE and ASKAのASKA(本名・宮崎重明)容疑者の逮捕から1週間が経過した。当初、正体のわからなかった栩内香澄美容疑者の素性についても、大手人材派遣会社「パソナ」グループの関連会社に勤め、ASKA容疑者とはパソナグループ代表・南部靖之社長が主催したパーティーを通じて知り合ったことが判明した。
「南部社長はASKA容疑者の大スポンサーで、同容疑者は『親子よりも絆は深い』とまで豪語していた。一方で、南部社長と栩内容疑者が特別な関係にあり、一部週刊誌では“夜の接待要員”とも報じられた」(スポーツ紙デスク)
 注目されるのは、2人が出会ったとされる南部社長主催のパーティー。同社長は港区にVIPをもてなす専用の迎賓館「仁風林」を所有しており、週末ともなれば、各界のVIPや芸能人が集まり、盛り上がりを見せていたという。
 ネット上などでは頻繁に出入りしていた政治家の名前も挙がっているが、問題なのは「誰と出入りしていた」ではなく、そのパーティーが「なんのために開かれていたか」だ。
「実はここにこそ、今回の事件の最大の闇がある」
 そう断言するのは、前出のジャーナリストだ。
迎賓館を提供していたのは南部氏ですが、集められた接待役の女性は南部氏のみの力によって集められたわけではない。政財界や警察とパイプを持ちたい経営者が、こぞって接待用の女性を用意し、そうした人をもてなすんです。要するにあの場は、国家権力との橋渡しの場に使われていた。政治家はともかく、警察の人間まで美女をあてがわれて骨抜きにされているんですから、由々しき問題ですよ」(同)
 この構図は、保護責任者遺棄致死罪で収監中の元俳優・押尾学の事件と似ている。
「あの時も亡くなったTさんは、六本木ヒルズを中心にした社長連中に招かれて、政財界や警察を“接待”するパーティーに参加していた。彼女たちの中には、特別な“手当”をもらっている子もいた。パーティーには芸能人も多く招かれており、栩内容疑者のように有名アーティストとセフレ関係になる子もいる」(同)
 今回の事件でも南部社長のほかに、押尾事件でも登場した女性経営者や大手レコード会社の重役、出版社社長が接待用の女性をあっせんしていたとウワサされている。当局も事件の背景にこうした六本木コネクションがあることは把握済み。今後の捜査の進展がまたれる。

▲:赤坂コリアン放送(TBS)が隠蔽工作。現妻前妻愛人コリアン系の宮根誠司(日本テレビ)もパソナのパの字も報道せず。「コリアン暴力団をバックにした芸能事務所」に牛耳られている日本のテレビ業界の悲惨な状況。週刊文春・新潮はパソナについて報じているけれども、週刊現代と週刊ポストは? 出版業界まで腐っていることを教えてくれている。
 警察も(AKB警察も)、美女をあてがわれて骨抜きにされている、らしい。
 権力構造が腐った国家は、やがて崩壊する。
 日本を崩壊させるために、ある種の組織が、警察・政治家・財界を腐敗させたいのだろう。なんということだろう、その「成果」は着実に出ているようだ。押尾事件とアスカ事件は、そのことを教えてくれるのだが、テレビ局は「報道しない自由」を謳歌している。


http://www.cyzowoman.com/2014/05/post_12398.html
ASKA転落のきっかけ
「飯島愛との薬物セックスビデオが存在」ASKA、薬物事件に衝撃の新情報
【関連ワード】ASKA芸能ウラ情報薬物飯島愛

2014.05.29
 CHAGE and ASKA・ASKA容疑者の薬物事件で、さらなる衝撃情報が報じられた。29日発売の「週刊文春」(文藝春秋)で、ASKA容疑者の様子がおかしくなっていった原因として、“飯島愛の死”が大きく影響していたというのだ。
 「文春」によると、ASKA容疑者は飯島が死去する数カ月ほど前に、渋谷区にある飯島の自宅で合成麻薬「MDMA」を使ってセックスをし、その様子をビデオに撮っていたという。飯島はセックス以外の場面でも、日常的にカメラを回して記録を残していたそうだが、ASKAは飯島が死去したと報じられた際、パニックを起こして、ごく親しい関係者に「やばいことになった」「あんなものが流出すれば俺のアーティスト人生は終わる」と漏らしていたという。
「飯島は当時自身のブログに、チャゲアスのコンサートを見に行ったこと、また『チャゲアスのアルバムが良かった、飛鳥さんの声がスゲーいい』といったことも書き込んでいます。また、飯島の自伝本『プラトニック・セックス』(小学館)が映画化した際には、チャゲアスが『NOT AT ALL』名義で挿入歌を楽曲提供したりと、両者には一応接点はあったようです。しかし、今回報道されたような“愛人関係”についてはまったく初耳。どの媒体も気配さえ掴んでいなかった、知られざる間柄でしょう」(週刊誌記者)
 飯島が2008年12月、自宅マンションの一室で死去した際には、各メディアが取材に奔走。「遺体から薬物反応が検出された」また「精神を病んでいた」といった報道も盛んに行われたものだった。死因については、「肺炎」とされていたものの、やはりその後も薬物の“過剰摂取説”がささやかれていた。
「芸能界引退から、少しずつ当時仲が良かった関係者とも疎遠になっていき、最後の方は彼女に関する情報がまったく入ってこなかった。さらにネット上では、引退の真相について『綾瀬コンクリート殺人事件の犯人と接点があった』といった真偽不明の情報も飛び出し、死後明らかになった“精神的に不安定だった”という状態にも拍車を掛けました。しかし、彼女はAV出身ながら女性支持も高いタレントだったため、そのような報道はファンからも望まれず、徐々に消えていきました。ASKAは、そんな飯島の心の支えになっていたようです」(別の週刊誌記者)
 また「文春」の記事では、ビデオの存在に関して「薬物依存症に特有の被害妄想だったのかもしれない」という証言も掲載されており、まさに真相は藪の中という状態だ。今後、ASKAと飯島についての続報は出るのだろうか?


歩く品性下劣とその背後関係

http://www.asyura2.com/12/senkyo134/msg/847.htmlから引用。

大阪維新の会 大口後援者にマルハン、ソフトバンク、パソナ 週刊ポスト2012年9月7日号 

http://www.asyura2.com/12/senkyo134/msg/847.html
投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 8 月 27 日 09:05:27: igsppGRN/E9PQ


大阪維新の会 大口後援者にマルハン、ソフトバンク、パソナ

http://www.news-postseven.com/archives/20120827_139334.html
週刊ポスト2012年9月7日号

 橋下徹・大阪市長率いる大阪維新の会が次期衆議院選挙の準備を本格化させつつある。


 9月12日に「大阪から国を変える!!」をスローガンに地元で大々的な政治資金パーティを開き、その後、維新候補たちが全国遊説に乗り出す予定だ。


 総選挙を戦うには軍資金が必要だが、すでに大口スポンサーの名前も挙がっている。


 橋下氏は大阪府知事時代から大阪カジノ構想を推進し、今年2月には松井一郎・大阪府知事とともに香港のカジノ運営会社CEOと会談、「任期中に誘致の道筋をつけたい」と協力を要請した。さらに記者会見(5月24日)でも、「先進国でカジノがないのは日本くらい。カジノは観光や集客のツールになるだけではなく、うまく使えば所得税制に代わるか並ぶくらいの所得の再配分機能を果たす重要なツールになる。国会議員にそういう発想はないんですかね」と持論を展開してみせた。


 維新の会の情報収集をしている民主党関係者が語る。


「カジノ構想に熱心な企業が京都のマルハン。全国にパチンコ店やボウリング場、ゲームセンターなどを展開する年商2兆円という遊技場最大手で、マカオのカジノに出資したり、カンボジアに銀行まで設立している。


 しかし、日本では国の規制が強くてカジノの実現にはハードルが高い。そこでマルハンがカジノに理解のある橋下維新の会の国政進出を支援するという情報がある。Jリーグ・大分トリニータに十数億円出したスポンサーとしても知られる資金力豊富な企業だけに、維新の会の人気に、大口スポンサーが結びつけば大変な脅威になる」


 マルハンと橋下氏には接点がある。橋下氏が府知事時代に発足したカジノ構想の研究会「大阪エンターテイメント都市構想研究会」の会員企業には大手広告代理店や鉄道会社、電機メーカー、建設会社と並んでマルハンが参加している。


 さらに、今年5月に溝畑宏・前観光庁長官(現・内閣官房参与)が大阪府特別顧問に就任したが、溝畑氏はカジノ構想の推進者で、大分トリニータ社長時代からマルハンとのパイプが太いことで知られる。


 その溝畑氏はマルハンの維新支援情報についてこう語る。


「橋下氏とは私が観光庁長官になる前からのおつきあいで、今回、松井府知事から大阪を元気にしたいという要請があって全面協力しようと顧問に就任しました。マルハンの韓昌祐・会長にもJリーグの時から随分お世話になっています。韓会長のもとにはいろんなところからスポンサーの要請が日に何件も来ているようです。


 とはいえ、一代であれだけの事業を築き上げた方だから、(支援するかどうかの判断は)相当シビアだと思いますね。維新の会のこともあくまでニュートラルに見ているのではないでしょうか。少なくとも、私がマルハンと維新の会をつないだというのは誤解です」


 マルハン経営企画部は、「大阪エンターテイメント都市構想研究会には娯楽産業の振興を目的に参加している。チャレンジする人を応援するというのはわが社の社風ですが、維新の会を社として応援しているということではない。会長や社長が個人的に支援しているかどうかまでは把握しておりません」と回答した。


 一方、橋下氏自身はこの間、有力経済人と政策について意見交換をしてきた。ソフトバンクの孫正義・社長はツイッターで橋下氏にエールを送ってきたことで知られるが、橋下氏は今年1月に上京した際、孫氏や宮内義彦・オリックス会長らと会談し、エネルギー政策や大阪府市改革で意見交換したことが報じられている。橋下氏が大阪府知事選に出馬した2008年当時に堺屋氏とともに応援した経済人にはパソナの南部靖之・社長もいる。


 宮内氏は小泉内閣の総合規制改革会議議長として郵政民営化を推進した人物で、孫氏と南部氏は安倍晋三・元首相のブレーン経済人として知られる。


 安倍氏は維新の会と連携して政界再編を志向する動きを見せているが、背景には、「安倍氏を中心とする上げ潮派(経済成長重視派)は橋下氏とブレーン人脈や支援者が重なっている。上げ潮派はいまや野党自民党の中でも反主流派だけに、日の出の勢いの維新の会と組むことで政界の主導権を回復し、スポンサーを維持したいという思惑がある」(自民党町村派議員)という指摘があることも見落とせない。


▲:なるほど。もっとも、今となっては、歩く品性下劣男(walking indecency)に「日の出の勢い」はなく、「日没の悲哀」しかないけれども。

 コリアン勢力の影響下にある維新の会に、アントニオ猪木がいる理由も理解できる。

▲:walking indecency とwalking arrogance(aka石原慎太郎)を繋ぐものは――カジノ推進。

 猪瀬直樹と石原慎太郎を繋ぐものは――カジノ推進。
 ということで、どういう勢力の「駒」として彼らが動いているのか、推察は容易につく。

▲:で、カジノ、と言えば、安倍晋三。
http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPKBN0EA1NQ20140530
安倍首相がシンガポールでカジノ視察、成長の柱にとの期待示す
2014年 05月 31日 04:29 JST
[東京/シンガポール 30日 ロイター] - シンガポールを訪問している安倍晋三首相は30日、カジノを含む統合リゾート施設を約40分間視察し、統合型リゾートは将来の経済成長の柱になるとの見解を明らかにした。

首相が訪れたのは米ラスベガス・サンズ(LVS.N: 株価, 企業情報, レポート)が運営する「マリーナ・ベイ・サンズ」とゲンティン・シンガポール(GENS.SI: 株価, 企業情報, レポート)が所有する「リゾート・ワールド・セントーサ」。

安倍首相は日本の魅力を高め、人を呼ぶためにはどうするべきかという観点から統合型リゾート施設がもたらす恩恵について議員の間で協議してほしいと述べた。

日本ではカジノ解禁に向けた法案が提出されており、同法案を支持するある国会筋は30日、今国会では難しいものの、秋の臨時国会で成立する公算が非常に大きいとの見方を示した。

また、施設の整備が2020年の東京オリンピックに間に合わないとの理由で、法案成立が来年まで先送りされる可能性は低いと指摘した。


これまでにラスベガス・サンズやゲンティンのほかに米MGMリゾーツ(MGM.N: 株価, 企業情報, レポート)や中国・香港系のメルコ・クラウン・エンターテインメント(6883.HK: 株価, 企業情報, レポート)などが日本でのカジノ運営に関心を示している。
(引用終わり)

 こんな記事もある。
安倍とパチンコ業界の「蜜月」
カジノ実現は「利益誘導」
    
「カジノにはメリットがある。研究していきたい」

 三月に行われた衆議院予算委員会で、安倍晋三首相はこう答弁した。「カジノ特区」は、過去に繰り返し浮上しては消えてきた永田町のゾンビのようなプランだった。しかし現在、その実現に着実に近づいている。

「今秋以降、安倍首相は成長戦略の中にカジノを織り交ぜる」

 自民党の衆議院議員の一人はこう断言する。経済振興効果には疑問符がつけられているカジノに、安倍首相がこだわるのには理由がある。パチンコ業界との「蜜月」だという。この議員が続ける。
「安倍首相こそパチンコ議員の最右翼だ」

 ご存じの通り、パチンコ業界はカジノ実現に向けて政界に働きかけを行ってきた。パチンコ店はもちろん、パチンコ・パチスロ台メーカーや関連部品メーカーからなる業界は巨大である。十九兆六百六十億円の市場規模(『レジャー白書二〇一三』)を持つとされる「ギャンブル業界」の工作は露骨だ。

地元パチンコ店との繋がり

 パチンコ業界の団体はいくつも存在するが、主に店が加盟するパチンコ・チェーンストア協会(PCSA)という団体がある。業界の「信用と地位の向上を果たす」という目的を掲げるPCSAには、多くの国会議員が「政治分野アドバイザー」として名を連ねる。政権交代前には民主党二十人、自民党十一人だった人数構成は、がらりと様変わりして最新の名簿では、鳩山邦夫氏、野田聖子氏などをはじめとして、二十二人の自民党議員が並んでいる。

 PCSAアドバイザーをざっと眺めると他のパチンコ関係議連に所属する者がいるが、中でも注目すべきは「IR議連」と併任している議員だろう。

 IR議連の正式名称は「国際観光産業振興議員連盟」。永田町では「カジノ議連」の通称の方が、通りがいい。設立当初からの所属議員が「カジノとパチンコを並列で議論する」「パチンコ換金合法化はカジノ法案成立時以外にタイミングはない」といった発言をしていた。つまり、IR議連はパチンコ議連の別働隊である。同議連の設立は一〇年四月、民主党政権下で超党派七十四人の議員が集まった。安倍首相はこの議連の最高顧問を務めているのだ。

「安倍首相は、警察出身議員を押しのけ、いまや業界の窓口になったうえ、特定メーカーと接近している」

 業界関係者の一人はこう語る。従来、パチンコ業界の利益代弁者であったのは、自民党の平沢勝栄議員や、みどりの風の亀井静香議員といった元警察キャリアだ。

 警察庁の保安課長時代に、パチンコ業界における警察一家の一大利権であるプリペイドカードを導入した平沢氏は、長らく業界とのパイプ役であった。しかし、一度下野したうえ、与党に復帰した後も冷や飯を食う平沢氏では、パチンコ業界の要求するパイプ役を果たすことはできない。一方の亀井氏は特に業界大手のユニバーサルエンターテインメント(UE)社と近く、同社の会合には必ずと言っていいほど主賓として招かれていた。「亀井氏はメーカー社長をタクシー代わりに電話一本で呼び出す」(前出業界関係者)など、往時の影響力は大きかった。しかし、亀井氏もまた凋落の一途だ。

 そこで、業界大手のセガサミーホールディングスの里見治会長が政権交代前から近づいたのが安倍首相だ。同社は宮崎県のシーガイアを購入し、韓国のカジノリゾートに参画するなど、UE社と並んでカジノ実現に積極的である。

 セガサミー関係者の一人は語る。

「安倍首相は、里見会長の元に直接訪ねてくるほどの間柄」

 下野して支持基盤が脆弱になる中で援助者を求める安倍氏と、政界へのパイプがほしかった里見会長の思惑が重なったのだとこの関係者は分析する。政権交代後も、里見会長と安倍首相は複数回の会合を持ったほか、パチンコを所管する国家公安委員長にも接近しているという。

 いまや、セガサミー社員は業界団体の集まりで「安倍首相はウチが落とした」と公言してはばからない。

「参院選前に、里見会長は安倍首相に五千万円を手渡した」

 里見会長の側近の一人が、こんな耳を疑うような話を吹聴しているほどに、セガサミーは「お祭り状態」(前出業界関係者)なのだ。

 メーカーとの関係が深まったのは最近のことだが、実は安倍首相と業界の?がりは昨日今日始まったものではない。安倍首相の地元である関門海峡を望む、山口県下関市。九州へ渡る本州側の玄関口であるこの地は、関釜フェリーを通じて長年韓国との玄関口という顔も持ち、コリアンタウンが存在する。地元紙記者が語る。

「安倍首相の祖父である岸信介元首相は韓国利権で知られた人物。安倍氏も地元在日社会との繋がりが深い」

 特に安倍首相の父である、晋太郎氏の時代からは地元パチンコ店から物心両面の支援を受けているという。過去には、山口県でパチンコ店を経営する東洋エンタープライズの保有物件に安倍首相の事務所があった。同社は、福岡に本社を置く七洋物産の一〇〇%子会社で、同社の先代社長である吉本省治氏は韓国から帰化した在日社会の大物だ。年商二百八十億円(一二年十二月期)の七洋物産は「一貫して安倍家の重要なスポンサーを務めてきた」(在福岡ジャーナリスト)という。
(以下省略)

▲:成長戦略が「カジノ」とは……。しかも、この愚かな構想を、コリアン毎日新聞とか、コリアンTBS(安部批判の急先鋒のくせに)が決して「批判しない」のも、日本の腐敗構造を明らかにしてくれている。







2014年5月27日火曜日

こんな顔をしていたときも税金を払っていなかったのだろうな



世界一トヨタ、5年間法人税を払っていなかった! どんなカラクリがあるのか、と怒りの声 
2014/5/27 13:58 JCAST
   クルマの年間販売台数「世界一」のトヨタ自動車が法人税を納めていなかった。最近、巨額の利益を上げているはずなのに、なぜこんなことができるのか、とインターネットで怒りの声も出ている。
   トヨタの豊田章男社長は2014年3月期の決算会見で、09年3月期分から納めていなかった法人税を、14年3月期から支払えるようになったと語った。
「企業は税金を払って社会貢献するのが存続の一番の使命」??
  トヨタ自動車の2014年3月期連結決算によると、グループの世界販売台数が世界で初めて年間1000万台を突破。売上高は前期比16.4%増の25兆6919億円、営業利益は6年ぶりに過去最高を更新して、73.5%増の2兆2921億円。税引き前当期純利益は73.9%増の2兆4410億円の好決算だった。
   まさに、トヨタは「世界一」の自動車メーカーになった。
   この結果に、豊田章夫社長は「一番うれしいのは納税できること」と喜んだ。豊田氏が社長に就任したのが2009年6月。「社長になってから国内では税金を払っていなかった。企業は税金を払って社会貢献するのが存続の一番の使命」と語り、「納税できる会社として、スタートラインに立てたことが素直にうれしい」と話した。
   トヨタ自動車は、たしかに法人税を払っていなかった。そのことは広報部も「この5年間は払っていません」と認め、「13年度分を、この6月に納めます」と話している。
   こうした実態に疑問を呈する人も出ている。
   共産党の佐々木憲昭議員は自身のオフィシャルサイト(5月20日付)で、「トヨタは税金を払っていなかった!?」と取り上げた。しかも豊田社長の就任後の5年間、ずっと払っていないというのだから、「いったいどうなっているのか」との思いがあったのだろう。
   佐々木氏は「これまで、繰越欠損税制や連結納税制度などをフルに使って税逃れをしてきたということでしょう。税金も払わず『社会的貢献のできない会社』だったということを自分で認めたかたちです」と指摘。さらに、トヨタが新聞広告で4月からの消費税率の引き上げについて、「『節約はじつは生活を豊かにするのだと気がつけば、増税もまた楽しからずやだ』などと述べている。自分は、税金を払わないが、庶民が払うのは『楽しからずや』だなんて、庶民感情を逆撫でするものだと言わなければなりません」としている。

研究開発費や外国での納税… 法人税の「控除」は多岐にわたる
   トヨタ自動車の豊田章夫社長の発言に、インターネットには、
「ホントに払ってないのか??」
「世界のトヨタが言うと嫌みにしか聞こえない。傲慢さが出てるね」
「1円も税金払っていないことを抜けぬけとトップが自慢げに言うとは。あくせく働いて税金を払っている一般国民を小ばかにしたような発言ではないか」
「クルマも売れて、戻し税のおかげもあってウハウハで、ついポロリと本音が出たのであろうか。この発言で点数下げたことは確か」
といったコメントが寄せられている。
   とはいえ、基本的に利益があって、配当している上場企業は法人税を払っているはずだ。トヨタの2009年3月期の税引き前当期利益は5604億円の赤字だったので、このとき法人税が払えないのはわかる。しかし、10年3月期のそれは2914億円の黒字。以降、5632億円、4328億円、13年3月期には1兆4036億円もの黒字を計上してきた。法人税を納められないほど「体力」がないわけではない。
   一方で、じつは法人税にはさまざまな「控除」項目がある。たとえば、欠損金の繰越控除額(期間7年、大手企業の場合は80%)。ただ、2010年以降利益を上げているので、これだけでは「ゼロ継続」の説明はつかない。
   子会社からの配当や研究開発費、海外に進出している企業が海外で納めた税金分を、日本に納める法人税から控除することもできるし、地方税の部分については工場誘致などを理由に免除していることもある。
   いろいろ優遇措置を使って、法人税を払わずに済んでいる企業は少なくない。おそらく、トヨタも税金を納めなくて済むよう、いろいろと「遣り繰り」したことは推測できる。


▲:車ついでに、自分の車のこと。
 トヨタの車は、二度と買わない。クレスタに乗っていたころ、しょっちゅう故障していたので、トヨタ車はゴミだと思っている。
 それよりも、日産の車について。
 どこかで新型(3代目)エクストレイルの話が出ていた。私が以前乗っていたのは2代目のエクストレイル。街で3代目をよく見かけるけれども、テールランプが「髑髏の眼窩のよう」で、後ろから見るととても気持ちが悪い。そんなことを考えるのは、解剖をやったことのある医者だけかもしれないけれども、あのテールランプは本当に髑髏眼窩そっくり。
 エクストレイルは確かに山道(林道)、雪道は優れている。しかし、乗り心地は極めて悪い。後部座席もヒドイけれど、助手席も「×ゲーム」のような座り心地の悪さがある、少なくとも2代目のものは。恐らく、3代目もさして改善はされていないだろう。座り心地など気にしない、若い連中の車だと、今になってつくづく思う。
 テアナで御巣鷹の尾根の駐車場まで登ったとき、握り拳サイズの岩でも車の腹を擦り、大きな音を立てた。エクストレイルを運転するような感覚では、このセダンは運転できないとつくづく思い知らされる。さしたる急勾配を登ったわけでもないのに、駐車場で降りたときには、タイヤの焦げる臭いがした。矢張り、山道を走る車ではない。
 ということで、テアナでは、林道を走って登山口まで行く、というのは無理。
 近いうちに函館のNと山登りをすることにしたのだけれども、Nもホンダのハイブリッドに買い換え、私も軟派なセダンになったので、登る山の選択肢がぐっと狭まってしまった。
 しかし、Nも私も「中高年」であり、もう、ワイルドな車よりは、乗り心地だけで車を選ぶようになってしまった。舗装道路が登山口まで続いているような山しか登れないとしても、それは致し方のないことである。

PS
 骸骨のように見えるテールランプは、今の3代目ではなくて、2代目のマイナーモデルチェンジのものだった。

 3代目のエクストレイルは、車高も低くなり、押し潰された印象。そういえば、初代プレサージュも、背が高くて乗りやすかったに、3代目モデルチェンジでは、凡庸などこにでもあるワゴン車に変えられてしまった。車は進化するのではなく、退化することが多いのだと知る。初代を生み出す熱気を、その後の車屋たちが失ってしまうからなのだろう。



2014年5月25日日曜日

「不安」から覚醒剤をやったと隠蔽工作をするTVワイドショー

 芸能人が覚醒剤をやるのは売れなくなる不安と重圧のせいだ、と、TVワイドショーでは大合唱。まるで「覚醒剤に走らざるを得ない芸人が可哀想」、なんていう雰囲気づくりを続けている。
 酒井法子と岡崎聡子を呼んで、覚醒剤セックスについて語ってもらうといい。そうすれば、「人を支配する道具としての性接待」について理解できるだろう。押尾学とか、モスクワでこの領域では大いに活躍していたと豪語していた佐藤優あたりにも、解説してもらうといい。



「文春」「新潮」報道で広がる波紋 ASKA容疑者、栩内容疑者と財界の接点
2014.05.22 zakzak
 「CHAGE and ASKA」のASKA=本名・宮崎重明=容疑者(56)とともに逮捕された美人会社員、栩内香澄美(とちない・かすみ)容疑者(37)の華麗なる財界人脈が、注目されている。週刊誌は、人材派遣大手「パソナグループ」(東京・大手町)の南部靖之代表(62)の寵愛を受け、「喜び組」のようにVIPを接待していた実態を報道。トップアーティストの逮捕は、上場企業の信頼を失墜させる事態にも発展している。
 22日発売の「週刊文春」と「週刊新潮」は、栩内容疑者とASKA容疑者の接点は、日本を代表する経営者だったと報じた。
 栩内容疑者はパソナグループの企業を転々とし、逮捕当時には、パソナの関連先のカウンセリング会社(東京・大手町)に勤めていた。この会社では、社員のうち栩内容疑者だけが家賃13万円の東京・南青山のマンションを社宅として提供されていたとされる。
 “特権”を与えられ、勤務体系も普通のOLと異なっていたようだ。
 両誌によれば、途中から南部氏の覚えがめでたくなり、南部氏の秘書的な仕事も任されるようになったという栩内容疑者。代表的な秘書としての役目は、パソナの迎賓館「仁風林(にんぷうりん)」(東京・元麻布)で行われるパーティーの“接待要員”だったという。
 政治家や官僚、財界人、芸能人らが集まるパーティーに、栩内容疑者らグループ各社の女性社員10人前後が参加。この「接待役集団」はいずれも美人揃いで、社内では、喜び組と呼ばれていたとも報じられている。
 南部氏と親交があるASKA容疑者も、パーティーに出席し、接待役の栩内容疑者と知り合ったとされる。
 逮捕当時、栩内容疑者が勤めていたカウンセリング会社は「対応している者の家まで取材に来られて参っている。この件については何もお答えできない」。話の途中で、電話をガチャ切りするという混乱ぶり。
 接待要員の実態や栩内容疑者の逮捕についてパソナグループに見解を求めると、「当社としてお答えすることができません」(広報室)とだけ回答があった。
 「人は宝」をうたう上場企業が、女性社員をホステスのように扱っていたとすれば、大問題だ。ASKA容疑者の覚醒剤事件は、思わぬ波紋を広げている。


ASKAはハマってしまったのか シャブSEXの恐怖…女性は常に絶頂状態に
2014.05.23 zakzak
 覚醒剤所持の疑いで逮捕された人気デュオ「CHAGE and ASKA」のASKA=本名・宮崎重明=容疑者(56)。警視庁の調べで、ともに逮捕された栩内香澄美(とちない・かすみ)容疑者(37)と覚醒剤を使った性行為にふけっていた可能性が高くなっている。通常の数十倍の快感が得られるとされる「シャブSEX」。ハマると抜け出せない禁断の情事が、カリスマアーティストを破滅させたのか。
 衝撃の逮捕から6日。警視庁の調べに対し、ASKA容疑者は「覚醒剤ではなく(眠気をとるための)『アンナカ』(安息香酸ナトリウムカフェイン)だと思っていた」と供述し、容疑を否認し続けている。
 だが、悪あがきが破綻するのも時間の問題だ。
 22日発売の週刊文春は、ASKA容疑者の覚醒剤依存を示す決定的証拠を警察がつかんでいたことを報じた。栩内容疑者の自宅(東京都港区南青山)から出されたゴミ袋からASKA容疑者の精液がついたティッシュを押収。ここから薬物反応が出たという。2人が覚醒剤を使った「シャブSEX」を繰り返していた可能性が高い。
 逮捕後、両容疑者から採取された毛髪から覚醒剤成分が検出されたことから、警視庁は週明けにも覚せい剤取締法違反(使用)の疑いで両容疑者を再逮捕する。
 また、ASKA容疑者の自宅(東京都目黒区)からは、「エクスタシー」の異名を持つ合成麻薬「MDMA」も見つかったが、関係者によると、性行為中の感度を高めるため覚醒剤と併用されることが多いという。
 実際に覚醒剤を使用して性行為に及ぶとどうなるのか。
 使用での逮捕歴がある芸能関係の男性は「普通、耳かき1杯程度のシャブを体に入れると、2~3時間ぶっ通しでセックスができるようになる。それだけ長い時間、相手ができる女はいないので、必然的に男女一緒に服用して行為に及ぶことになる」と話す。
 この男性は「1日中、行為にふけることもあった」といい、「通常時の数十倍気持ちいい。シャブを入れすぎると勃起しなくなるが、感度が異常に上がっているから、性器に触れられるだけで絶頂感を味わえる。相手と何度も求め合い、行為が終わると目の前が真っ白になる。そのときは『死んでもいい』とさえ思う」と振り返った。
 だが、異常な行為の代償は重い。快感が忘れられず、依存症となり、まともな社会生活が送れなくなるばかりか、覚醒剤に混入する有害な不純物で健康は悪化。幻覚や幻聴、被害妄想などの禁断症状が現れるようになる。
 覚醒剤が入り込んだとき、体内では何が起きているのか。
 薬物依存に詳しい精神科医でヒガノクリニック院長の日向野春総氏は「覚醒剤の主成分『アンフェタミン』によってドーパミンが脳内に大量に放出される。感度が高まるのは、快感中枢をつかさどる視床が刺激されるためだ」と指摘し、こう続ける。
 「女性は快感の波がとめどなく押し寄せるような状態になるが、男性は性的快感よりも攻撃性が増幅される。嗜虐(しぎゃく)傾向が強くなり、性行為中に暴力をふるったりするようになる。繰り返し使用すると耐性ができ、同じ快感を味わうために使用量が増えてくる。そうすると依存から抜け出せなくなり、廃人への道をまっしぐらだ」
 行き着く先が地獄であることは間違いない。



資料 大泉洋 劇団鼻毛

 知らなかった。こんなスキャンダルが昔あったのか。劇団鼻毛が監督をつとめた映画の宣伝で、出ずっぱりの大泉洋。

http://www.cyzowoman.com/2014/05/post_12334.html
大泉洋、子煩悩アピールに「過去のセックススキャンダル」の翳
2014.05.25
 劇団ひとりの初監督作品『青天の霹靂』で主演を務める大泉洋。映画のPRのためテレビやラジオに出ずっぱりの状態だが、私生活でも超多忙を極めているようだ。
 大泉が意外なプライベートを明かしているのは、現在発売中の女性ファッション誌「LEE」(集英社)6月号でのこと。モデル・浜島直子との対談で、「テレビを見る時間がなくて、今、見てるのは『おかあさんといっしょ』ぐらいですよ」と言い、「今、僕がいちばん会いたいのは、『おかあさんといっしょ』のだいすけおにいさんと、たくみおねえさんだもんな(笑)」と語っている。
 大泉といえば、2010年にフジテレビのドラマプロデューサーである中島久美子氏と結婚。翌年に長女が誕生しており、現在は2歳児のパパ。「僕にしてみたら、レギュラー番組が1本、増えたようなもんなんですよ」と話すほど、撮影の合間に子どもとの時間をやりくりする慌ただしい日々を送っているらしい。確かに、2歳の女の子となればかわいい盛り。大泉もかなりデレデレの様子で、「僕自身が誰より娘と遊びたいから、自分の時間は減ってくわけです」「地方で撮影しているときはネット通話でしゃべるのが僕の唯一の楽しみ」「昨日も、新玉ねぎとベーコンで、ナポリタン的なスパゲティを作ってあげました」と、その子煩悩ぶりを披露。「僕は、早く孫が見たいんですよ」と気が早すぎる発言まで飛び出すほどだ。
 一方で、妻への感謝も忘れない。「男親は、一緒にいる時間が甘やかすばかりだけど、女親は毎日のことだから、厳しくしなきゃいけないこともあるし、ホント大変だと思いますよ」とフォローし、「全国のママたち、えらいなぁと思いますよ」と苦労をねぎらっている。
 しかし、結婚前には、4年間交際していたファンの女性に“都合よく遊ばれた”として、その関係を写真週刊誌「FLASH」(光文社)で暴露されたことも。この記事には、「鏡の前でのセックスを要求された」などという赤裸々な告発もされており、意外にも熱狂的な女性ファンを多く抱える大泉にとっては大打撃だったようで、当時を知る芸能関係者は「大泉本人も所属事務所も、このスキャンダルにかなりナーバスになっていた」と話す。
「最近ではテレビでも子どもへの溺愛ぶりをアピールしていますが、これもイメージ戦略の1つなのかもしれません」(芸能関係者)
 俳優としては安定した人気を誇っている大泉。今後は“やさしいパパ”路線での活躍も増えていくのだろうか。

▲:大泉洋の次回作は、もちろん、『鏡の前』という艶物で、監督は劇団鼻毛。主人公の大泉は、財布の中に長い鼻毛を集めていることにして。



バックは川村龍夫でも苦戦 夏目三久





http://www.news-postseven.com/archives/20140521_256980.html
夏目三久『あさチャン』 不調で田中みな実と有吉争奪戦勃発
2014.05.21 16:00

 フリーに転身以降、向かうところ敵なしの快進撃を続けていた夏目三久アナ(29)が、ついに大きな壁にぶち当たった。鳴り物入りでメインキャスターに抜擢されたTBS朝の新番組『あさチャン!』が、いざ蓋を開けてみれば視聴率3%台をウロウロの大苦戦。平均5%台を取っていた前番組『朝ズバッ!』にすら遠く及ばない惨状である。そのためTBS局内からは、夏目アナへの不満が噴出しているという。

「元々、局アナを差し置いて抜擢された夏目アナへの風当たりは強かった。中でも田中みな実アナ(27)は夏目アナの名前を聞くと目に見えて機嫌が悪くなる。田中アナにしてみれば、局のエース格といわれているのに、自分はいつまで経っても色物扱い。それなのに“コンドーム写真流出”で日テレを辞めた夏目が硬派な番組をやっているんですから、複雑な思いがあるのでしょう」(TBS社員)
 2人はもうひとつ因縁があった。いまや「お笑い界の新帝王」となった有吉弘行をめぐる関係である。ご存じの通り、夏目アナは日テレ退社後『マツコ&有吉の怒り新党』(テレビ朝日系)で再ブレイク。一方の田中アナも『有吉ジャポン』(TBS系)で有吉のパートナーを務めている。
「2人とも有吉さんからかわいがられている自負があるだけに、お互い意識しあっている。有吉さんもそれをわかっていて、わざと煽りますからね。『怒り新党』でわざわざ田中アナの話題を持ち出した時は、夏目アナもあまり面白くなさそうでした」(制作会社社員)
 2人のライバル関係は、今後どうなっていくのか。今のところ『バンキシャ!』(日本テレビ系)など数々のレギュラーを持ち年収3億円を超えるとも噂されている夏目アナが圧倒的に優勢と思えるが……。別のTBS社員がいう。
「田中アナにもフリー転身の噂が絶えない。アナウンス能力とバラエティの仕切りには定評がありますし、もし実現すればバラエティやCMのオファーが多数あることは間違いありません。一方の夏目アナは“不思議ちゃん”だけに守備範囲は意外と狭い。もし『あさチャン!』でミソがつけば、今後の2人の関係は大逆転するかもしれない」
 どちらが化けるか。ぜひ有吉の意見も聞いてみたい。
※週刊ポスト2014年5月30日号

▲:『朝コンドーム!』が見ていて面白くない理由は、半分以上は、腐った小さなハンペンのような斉藤孝の「不味さ」にあるのだけれども、それは誰もが知っていることか。


朝コンの 腐れハンペン 斉藤孝 (字余り)




2014年5月24日土曜日

資料 西尾正道

http://www.asahi.com/articles/ASG5R517DG5RUGTB00R.html
 人気漫画「美味しんぼ」で東京電力福島第一原発事故後の鼻血の頻発などが描かれたことをめぐり、専門家や健康被害を訴える当事者が23日、国会内で記者会見を開いた。政府や福島県が「風評被害を助長する」などとして事故と鼻血の関連を否定していることに対し、「因果関係は否定できない」と反論した。
 住民の自主的な甲状腺検査に協力してきた北海道がんセンターの西尾正道名誉院長は「高線量被曝(ひばく)による急性障害に論理をすり替え、鼻血(との因果関係)を否定する『専門家』がいる」と批判。「放射性物質が付着した微粒子が鼻腔(びくう)内に入って低線量でも鼻血が出る現象はあり、医学的根拠がある」と指摘した。
 記者会見に電話で参加した福島県内の母親は「漫画全体を読み、福島への愛情を感じた。子どもに鼻血が出ても、話を聞く前から因果関係を否定するような人たちに私たちは本当のことは言わない。国の責任で鼻血を含めた健康調査をしてほしい」と訴えた。
 崎山比早子・元国会事故調査委員会委員(がん生物学)は「汚染地域は広範にあり、健康障害への懸念は鼻血どころでない。正確な情報を」と説いた。主催の市民団体代表は「鼻血の表現ばかりに焦点を当てて攻撃し、健康障害を訴える声を抑えつけている」と非難した。


▲:昔はこの先生、こんなことを言っていた。

楽天ブログより再録
2011.07.22     

放射能牛肉 西尾正道・北海道がんセンター院長  [ 2011東北津波原発大震災 ]     
 夕方の北海道ローカルニュースを見ていたら、北海道がんセンター院長の西尾正道が画面に出ていて、政府が定めている500ベクレル/kg以下なら出荷規制しないという「基準値」は殆ど全く無意味であると、滔々と述べていた。つまり、今すぐ健康被害はないだろうというだけで将来被害を及ぼさないという保証は全く無い、と。
 この院長、原発事故の直後にはこんなことを言っていたのだけれども……。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110314/dst11031419350114-n1.htm
● 「一般への健康被害ない」 専門家が冷静な対処呼び掛け
2011.3.14  産経新聞
 東日本大震災で被災した原発施設のトラブルで、敷地内では14日も、法定の通報基準である毎時500マイクロシーベルトを超える放射線量が検出された。一般人の年間被曝(ひばく)線量の限度は1000マイクロシーベルトだが、専門家は「大気中の放射線物質による急性全身被曝は起こるが、低線量なので問題となることはない」と冷静に対処するよう呼びかけている。
 国立病院機構北海道がんセンターの西尾正道院長(放射線治療科)によると、被曝は(1)急性か慢性か(2)全身か局所か-により人体への影響が異なる。例えば、胸部X線の撮影は60マイクロシーベルト、胃のバリウム検査は600マイクロシーベルト、胸部CT検査では6000マイクロシーベルトの局所被曝を受ける。
 今回のケースは局所ではなく全身被曝に当たるが、衣服への放射性物質の汚染と人体の被曝線量は異なり、検出量がそのまま被曝線量とはならない。衣服を洗えば、放射性物質は落とせる。
 「全身の急性被曝でも、25万マイクロシーベルト以下では臨床的な症状は出ない」と西尾院長。白血球の一時的な現象がみられるのは、50万マイクロシーベルトといわれている。西尾院長は「今回の事故で周辺住民が健康被害を受ける危険はない」と冷静な対処を呼びかけている。


▲:随分昔のことだが、この先生の著した放射線関係の本を、製薬会社の人にタダで貰ったことがある。たくさん、医者に配り歩いていた。

資料 生野区連続”日本人狩り事件” 日本語のウィキもコリアン支配

アンサイクロペディアの
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%94%9F%E9%87%8E%E5%8C%BA%E9%80%A3%E7%B6%9A%E9%80%9A%E3%82%8A%E9%AD%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 から「ほんの一部」を引用したのが、以下の文章

ウィキペディアにおける記事削除の動き

今回の事件におけるウィキペディアの動きは以下のリンク先をご確認ください。なお、絶対に文章は読まないでください。
[編集] 発生から記事の作成、そして最初の削除まで
ウィキペディアにおける記事の作成について、生野区の事件は特に問題はない。実際、この程度の事件や事故の記事は数多く存在し、別に単なる通り魔事件としてああそういう話もあったねとスルーされるのが、いつもの話であった。しかし、なぜだか今回の事件に限り特筆性がないという理由で削除された。なお依頼提出者は元管理者、氷鷺氏であることから、左翼と癒着している管理者や古参ユーザー共が陰謀を巡らせたに違いない。そういうことにしておこう(棒読み)。陰謀論の根拠として、実際、ある(大阪在住の)元管理者から、記事復帰賛成者にむけて、根拠のない非難や脅迫が行われている。
この削除に対して、陰謀論大好きで管理者が大嫌いなユーザー達が猛反発。削除の復帰依頼を提出し、その依頼は紛糾した。もちろんバカ発見器でも馬鹿共が騒ぎ出した。挙句の果てに
「日本人を殺す」重傷者を出した「生野区連続通り魔事件」 ウィキペディアから記事が突然削除されネットで騒ぎに
韓国人による生野区連続通り魔事件のWikipedia項目が「ニュースサイトではなく事件の1つでしかない」という理由で削除
その騒ぎの顛末がニュースサイトの記事として取り上げられてしまったのである。特筆性がないと言われて削除されたこの記事だが、ここまでもめたらもう十分に特筆性があると言えるだろう。特筆性があるかどうか疑わしい記事の特筆性を、ウィキペディア自身が作ってしまったのである。笑い話以外の何者でもない。
当然のことながら、削除に対処した管理者、Muyo氏の会話ページも、こんな風に荒らされている。
なお、J-CAST、ガジェット通信のメディアとしての信憑性についてはお察し下さい。あ、でもネット民からは朝日新聞とか毎日新聞よりは信頼されてるし朝日も毎日もこのレベルのゴミ記事やクソコラムは普通に書いてるよね! 天声人語とか!
その後同サイトの管理者の一人が「削除するとの意見で合意されているとは言えない」として記事の復元を決定したが、議論は平行線のままであり、また突然削除された。この後、ネトサヨウィキペディアンによるブロック依頼の乱発でウィキペディアのコミュニティーが疲弊したためか、Wikipedia:井戸端での議論はネトサヨの温床となった。一方でネトサヨ管理者の不適切な権限行使が見過ごされているわけではない。こんな感じで泥沼戦になっている。
[編集] 観察したい方はどうぞ
長年にわたってウィキペディアを観察し続けている人間すべてが知っているどうしようもない事実がある。それは、ウィキペディアにおける議論は議論ではない。絶対にない。知的なページを自称することすらおこがましい持論同士のぶつかり合いである。なお、最初の3日間だけ復帰依頼の内容を確認するものの、その後は読む必要はないと判断して、履歴のバイト数の確認だけ行うのが、蓄積された経験というものである。その判断は実に正しく、最終的に29万バイトを超え、わざわざサブページを作成するまでに紛糾し、ようやくに記事が復帰されることで議論は収束。しかし、さらにまた削除依頼をぶちかます利用者が出たことから再度紛糾。もはやお約束。果てしないバカとはこのことである。そして21万バイトを超える議論を繰り返した結果、復帰依頼とあわせると50万バイトものバカ話を積み重ねて再度、削除。
今後、再提出されることが予想される復帰依頼及び削除以来の繰り返しの結果、積み重ねしムダな議論が日本語版ウィキペディアにおける屈指のバカ記事、「イナズマイレブンの登場人物」(80万バイト)を超える可能性もあり、ぜひとも頑張ってもらいたいと思う反面、日本の恥をさらすのはやめてもらいたいという思いもチラホラと。そして、再度再びもう一度、今度は削除された元記事のノートでネバー・エンディング・無駄な議論が勃発。15万バイトもの日本語らしき何かを積み重ねてた後、ページが保護される。
とりあえず、日本を代表する知的なサイトにおける熱心な議論である。まったくもって。本当に。鼻で笑いつつ。
なお、こういった状況の中でいつもの無理やりな無期限ブロック連発のほか、体制に幻滅する利用者の増加、さらにはより一層、嫌韓感情を強くする一部利用者の暴走までがほぼセットになって発動することもよくある話であり、哀れウィキペディアンの中に存在したまともな交渉力を持つ人材がまた一人消えていったことを心から惜しむものである。
けれど、そうすることで、ウィキペディアの外部では様々な形で事象が動くこともいつもどおりで、図らずも日本語版ウィキペディアがプロパガンダの実験場になるのだから、見てる分には面白い話である。心底関わりたくないけどな。
とりあえず、心優しいアンサイクロペディアでは、一部のウィキペディアンが東京都議会議員選挙及び参議院議員選挙にあわせて、嫌韓意識をインターネット上にぶちまけることを目的に、こういったルールに則ったアホな行為をしているのだと勝手に理解。Googleの検索ページからこの記事にたどり着いた皆さんに、そういう意図で行われているものだと説明するものである。実際、都議会選挙が終了した直後に2回目の削除が行われるところなどは、もはや意識的に世論を動かしているようにしか見えないのだけれども、多分、偶然である。
なんにせよ、どこぞの空気読めないウィキ・・・なんとかのおかげで、インターネット上で嫌韓意識が一気に広まり、様々な在日韓国人優遇政策に歯止めがかかり、在日特権と呼ばれる法制度の穴を埋める作業が加速度的に進み、課税および兵役の義務の履行準備が着々と進んでいる。果たしてこれが、選挙前に悪行を消すためにやった結果だとすれば大失敗であり、選挙前に相手側の落ち度を飛躍度的に知らしめる意図だとすれば、歴史に残る大成功である。なお、真相がどっちであろうとなかろうと、見てて面白いのでまったく問題はない。
楽しい履歴(終了)
楽しい履歴 Round2(終了)
楽しい履歴 FinalRound
ウィキペディアに良識があった頃?

2014年5月23日金曜日

秋田県高校生の生命を危険にさらしてもおらほの空港が大事

韓国への修学旅行見直さず 秋田県教育長「不安を払拭したい」
2014.5.23 13:35 [旅・観光]産経新聞
 今年秋に韓国への修学旅行を予定していた秋田県立能代松陽高(能代市)が旅客船セウォル号沈没事故を受けて韓国行きを中止した問題で、米田進県教育長は23日、他の県立高については実施する意向を示した。
 県議会自民党会派との協議会で北林丈正氏の質問に答えた。北林氏は「風評被害ではないが、説明が必要だ。学校の判断に任せるのではなく、県として対応すべきではないか」と韓国への修学旅行の継続を求めた。
 米田教育長は「おっしゃる通りで、安全対策や情報収集で不安を払拭し、県の(旅行費)補助事業についてもPRしたい」と韓国行きを見直さない考えを示した。県教委によると、今年度は県立高3校が韓国への修学旅行を計画している。
 県は大韓航空の秋田-ソウル便維持のために韓国への修学旅行を推進しているが、交通機関への不安のほか、反日国への修学旅行は適切ではないとの批判が出ている。

▲:半島コリアの旅客輸送の安全性の欠如、が明らかになっているというのに、秋田空港の国際線を維持したいために、高校生を「人身御供」(?)に捧げて恥じない秋田県。
 鹿児島県も、同じように「おらほ(おいどん)の国際空港」を守るために醜悪な税金浪費をしていた。


時代錯誤の「公費天国」…税金で職員ら「上海旅行」鹿児島知事に県民怒り (1/3ページ)
2013.07.13zakzak
【関西の議論】
 鹿児島県の伊藤祐一郎知事が打ち出し、10日から実施される県職員らの公費丸抱え“上海研修旅行”が波紋を広げている。知事は、利用が低迷する中国東方航空の鹿児島-上海便を存続させるための事業であると“正当性”を強調。当初は職員千人を派遣し、事業費1億1800万円を計上する計画だったが、さすがに県議会などの反発にあい、派遣人数を300人に、費用も3400万円に減らした。それでも税金で海外旅行をプレゼントすることに変わりなく、時代に逆行する県の公費天国ぶりに県民は怒り、あきれている。(熊本支局 谷田智恒)
 ■お1人様、3泊4日11万8千円の豪華旅行
 「鹿児島県庁は研修名目で上海便を使い、中国に職員千人を派遣する。全額県費で千人単位で出そうと思っています」
 伊藤知事がこんな構想を打ち出したのは5月14日、鹿児島空港国際化促進協議会総会でのことだった。すぐさま計画は具体化し、県は29日、「上海派遣短期特別事業」として、6月補正予算案に必要経費1億1800万円を計上した。
 このときの計画では、一般行政職と教職員各500人の計千人を、20回に分けて50人ずつ3泊4日の日程で上海へ派遣。必要経費は、現地での宿泊ホテル代1万2千円(4千円×3泊)、航空運賃4万円、さらにチャーターバスや通訳の料金などを加え一人当たり11万8千円とした。
 これらをすべて公費で負担。研修中は「公務出張」扱いとなるため、派遣期間中の給料も支払われるほか、1万5200円の日当もつく厚遇ぶりだ。
 上海3日間の旅で3万~7万円が相場とされる民間ツアーと比べれば、あまりにも割高。県は「成長著しい上海の産業や都市基盤、教育などの状況を直接体験するプログラムを通じて職員の国際感覚や幅広い視野の醸成を図る」と説明するが、説得力に乏しく、県議会が6月初めに開会すると、県職労や与党の自民党県議団も批判に回った。

 そこで知事は「300人は県民に参画を求める」といったん“妥協案”を提示したが、最終的には県職員千人分1億1800万円の補正予算案を撤回。上海便存続の緊急対策として7~9月の3カ月間に県職員、教職員、県民各100人計300人を3泊4日で上海に派遣する内容に修正した。事業費も3400万円に減額され、財政調整積立基金から繰り入れることに決まった。
 ■税金投入の“正当性”訴える知事
 知事が今回の計画を打ち出した理由に挙げる上海便をめぐる事情はこうだ。
 鹿児島空港(同県霧島市)には平成14年から中国東方航空と日本航空の共同運航便が週4往復運航してきた。しかし昨夏の中国での反日暴動後、利用客が激減。23年の利用客は1万9761人(搭乗率55・4%)だったが、24年は1万6989人(同47・5%)と搭乗率が5割を下回り、過去最低となった。
 中国東方航空などは今年3月から週2往復に減便しており、このままでは定期便消滅の可能性も出てきた。そこで伊藤知事が思いついたのが、研修名目で職員を大量に利用させることだった。
 さらに県議会の論戦を通じ“もう一つの思惑”も判明した。知事は6月14日の県議会・一般質問で一部自己負担を求めた県議の質問に、「国の要請に基づき、職員1人あたり19万円ほど給与削減をする。その一部を研修という形で還元するのは必然的な流れ。税金丸抱えというケースにあたらない」と述べた。
 つまり、政府の求めに応じて削減する県の特別職や管理職の給与や手当て1億3千万円を財源として充当する方針だったのだ。事実上の給与補填(ほてん)に当たり、研修名目での税金投入がますます説得力を欠く結果になった。

 ■腰砕けの議会、押し切られた民意
 伊藤知事は名門ラ・サール高校、東大法学部卒で、総務省の元キャリア官僚。生活の党の小沢一郎代表が自治相だった当時、秘書官を務め、小沢氏と太いパイプを持つことで知られる。昨年7月の知事選は盤石体制で3選。3期目に死角はないように思われていたが、「イエスマンに囲まれ、世間の空気が読めなくなったのか、見苦しい迷走を続けた」(地元政界通)。
 「上海研修」事業の補正予算修正案を審議する6月28日の県議会は大荒れとなった。本会議や委員会が断続的に行われ、午後11時過ぎに1日会期を延長。傍聴席の県民からは知事に「エエ加減にせえ!ラ・サールの恥!」、知事に遠慮がちな県議らに対しては「腰巾着!」などとヤジが飛んだ。
 本会議は未明に再開され、賛成、反対の討論の後、起立採決を前に自民の1人が議場を退席。修正案は公明3人、共産1人、無所属議員4人のほか、自民の2人も反対したが、自民や県民連合(民主・社民系)の賛成多数で可決された。県民の批判が大きかったにもかかわらず結局、議会は腰砕け、知事の「剛腕」が民意を押し切った形になった。

 ■止まぬ県民の反発
 補正予算成立を受けて記者会見した伊藤知事は県民の反対について、「日本が国際化しているとの認識がない。鹿児島に住んでいれば十分という主張が強かった」と息巻いた。
 一方、住民団体「鹿児島オンブズマン」の続博治代表は「修正案もムダな支出に変わりはない。こんな事
業は伊藤氏が自分で金を出してやればよいことだ。県議会がチェック機能を果たさないので市民の立場で追及していく」と強調。7月1日に住民監査請求を行ったのに続き、伊藤知事を相手取り公金返還を求める訴訟を起こすことも検討している。
 6月5日から4万5千人の反対署名を集めた鹿児島市の開業医、堂園晴彦氏(61)も「これで鹿児島は世間の笑いもの。時機を見て、伊藤知事のリコール運動も検討したい」と怒りをあらわにする。
 その伊藤知事は7月10日に上海へ旅立つ“県職員ご一行”に同行、中国東方航空本社も訪れるというが、今回の強引なやり方に県民の反発は強く、県政に少なからぬ影響を与えそうだ。
 職員や議員の公費抱え研修旅行など「公費天国」は各地の自治体で問題になっている。関西でもこれまで同様の問題が各地で表面化。中でも大きな批判を浴びたのは、平成元年に公金詐取事件で職員が逮捕されたことがきっかけで明らかになった大阪市の公費乱脈だった。
 市幹部の公金での飲食や市議の飲食代のつけ回し、公金による高級接待などが次々と発覚、底なしの不正といわれた。市は綱紀粛正に力を入れてきたが、その後も公費による職員の厚遇問題が度々表面化している。
 どこの自治体にも通じる問題とはいえ、市民や世論の監視が厳しくなった今、鹿児島県の公費旅行は無駄遣いの最たるものとの批判を免れないだろう。

▲:北海道でもそうだけれども、空港管理会社というのは、北海道庁職員・県庁職員の「優雅な天下り先」なのである。北海道の元知事も天下りしていた。多くの幹部職員も天下りしているだろう。というわけで、税金をどれだけ使っても立派な空港を維持したいのである、たとえ高校生の生命を危険にさらそうとも。
 札幌市が都市部に「丘珠空港」を是が非でも維持したいのも、天下りと、関連整備土木事業への税金浪費をしたいから(建設会社のために)なのだと思う。それに一生懸命協力しているのが、北海道新聞。






資料 洲之内徹 人魚を見た人

http://www.geocities.jp/skegfirst/nakanoinn.html
大慈山中之院
2006年06月23 日
愛知県 知多郡 南知多町 山海字土間53





P42~

 名古屋市千種区月ケ丘の一劃に、通称月ケ丘軍人墓地という不思議な墓地がある。私がなぜそこへ行ったかはあとで書くが、この四月、初めてそこへ行って、私は何ともいえない、ちょっとどう言っていいかわからない複雑な気持になった。私だけではなかったらしい。そのとき私は、名古屋のマエダ画廊の前田さんと、前田さんの車で行ったのだが、墓地にいるうちに、二人ともだんだん口を利かなくなり、しまいにはどちらも全く黙りこんでしまった。だんまりのままで車に乗り、その車で私は駅まで送ってもらったが、
「前田さんは軍隊はどちらです」
 と訊いて、前田さんが戦争も終末に近い昭和十九年に海軍航空隊に入隊し、終戦を松山の隊で迎えたということも、このとき私は初めて知った。
 その、どう言っていいかわからないもののことを、それ以来私は考え続け、いまも考えている。静かな住宅地、というよりも、徐々に住宅地に変りつつあるらしい月ケ丘のその界隈の、小さな坂道の途中に、日の丸と軍艦旗とをぶっちがい十文字に掲げた墓地の狭い人口があるのだが、どこかから山鳩の声が聞えているひっそりしたあたりの気配の中で、二本の旗は唐突に眼の前に現れ、その違和感で人をドキリとさせる。何となく子供っぽい感じと同時に、ちょっと不気味でもある。
 墓地の入口の向って左は普通の家の玄関。右手へ、墓地の見隠しと掲示板を兼ねる屋根の付いた板塀が延びて、それには二百枚くらいも色紙が貼ってあり、〈留魂〉〈平和の基礎〉〈忍〉〈一寸赤心惟報国〉〈忠君愛国〉というような文字から、教育勅語の一節、〈海ゆかば〉の軍歌、さては子守唄まで見られる。雨を除けるために、塀の全面がビニールで覆ってある。
 墓地はさほど広くはない。日の丸と軍艦旗の下をくぐり、更に低く垂れた松の枝をくぐって、地上げをした隣家の土台の石垣伝いに下ると、その石垣を正面にして、百体ほどの、一つずつ台座の上に立った石とセメントの軍人像が、二十メートル四方くらいの地面に、何列かの横隊になって並んでいる。これが月ケ丘軍人墓地である。
 像の大きさはだいたい高さIメートル前後、中には胸像もあるが、台座、つまり墓石には戒名でなく、軍隊の階級名で名前が彫ってある。そして、墓はほぼその階級順に並んでいるらしいが、いちばん眼につくのは上等兵で、とはいえ、普通、戦死によって一階級昇級するから、戦死したときの彼等は一等兵である。最後列の右半分は将校。更にその後に、これだけが等身大よりも大きな像が二つ立っているが、左が呉●(サンズイに松)の敵前上陸で戦死した倉永部隊長、右がノモンハンで戦死した某中佐である。
 この墓地の世話をしている亀井藤●(カネヘンに律のツクリ)という人がいるらしかった。墓地の中に、使用目的不明の、水色のペンキで塗った大きな箱のようなものが二つ二つ置いてあり、他に立看板のようなものもあって、表面に詩とも歌ともつかぬものがいろいろ書いてあるのだが、そのあちこちに「墓守二十年也」というような文字が見える。墓地の片側に掘立小屋が二つ建っていて、この小屋も立看板の類も、入口の掲示板も、日の丸と軍艦旗も、この人の手作り、ないし自費で調製したものとあとで知ったが、その小屋の一つのほうに、参拝者の記名用のノートを入れた小さな木箱が打ち付けてあり、その箱の蓋に、亀井藤●というその人の名前と住所と電話番号が書いてあった。
 それが四月。六月には私は二度続けて名古屋へ行っていて、最初のときは前回同様前田さんの運転する車で墓地へ行き、そこで画家の入江さんと落合って入江さんの家を訪ね、そのあと私は茨木と大阪へ行って、帰りにもういちど名古屋へ寄ったのだが、私が大阪へ行っている聞に、前田さんは図書館へ行って第三師団戦史や歩兵第六聯隊の歴史などを調べ、必要と思われる箇所のコピーを作ってくれていた。第三師団司令部も歩兵第六聯隊もがっては名古屋にあり、月ケ丘軍人墓地の墓の主は当然、殆どがその第六聯隊の戦死者である。なかでも第二次上海事変の緒戦の戦死者が多い。彼等がどのような戦闘で死んだか
を私たちは知りたかった。コピーの他に、前田さんは三好捷三という人の『上海敵前上陸』という本を町の書店で買っておいてくれていた。この著者は第六聯隊ではないが、三師団と同時に動員された善通寺第十一師団の、丸亀第十二聯隊の下士官である。
 大阪から名古屋にもどると、前田さんに連れて行ってもらって私も図書館へ行き、私はそこで、同じ呉●(サンズイに松)地区の戦線に投入された豊橋第六十八聯隊の、第八中隊の記録というのを読み、夜はホテルで『上海敵前上陸』を読んだ。師団や聯隊の戦史には、戦闘の経過や状況は詳しいが損害、つまり戦死や戦傷についてはあまり具体的な記載がない。だが『上海敵前上陸』を読むと、八月二十三日に上陸した第六聯隊より十日おくれて上陸した丸亀第十二聯隊の著者の中隊が、数日後、呉●から十粁と離れていない地点で、敵中に取残され、二百名がたった十名になってしまった先発六聯隊の中隊に出会うところがある。第三師団は消滅してしまったのだ。そして、著者自身の中隊も、その二、三日後には八十名、十月中旬には三十名になってしまっている。
 翌日、東京へ帰る前に、私はもういちど、ひとりで墓地へ行った。ゆうベホテルで、あの亀井さんという人にやっぱりいちど会わなければと思いはじめたのだが、墓地の木箱の蓋の住所と電話番号を控えてなかった。更めてそれを見に行ったのである。
 会ってみると、亀井さんは鶏卸商を営む七十五歳の老人であった。意外にも軍隊経験はない。ただ、戦後もだいぶん経って昭和三十七年の夏のある日、亀井さんはたまたま軍人墓地の傍を通りかかり、かつて第六聯隊の出動の夜、自分も人混みの中で見送った覚えのある倉永部隊長の姿が草に埋もれているのを見て、あの人がこんなところに、と思った。そして、もういちどこの人達を世間にも思い出してもらいたいと思い、それからは日曜日ごとに、奥さんと二人で、忘れられた墓地の手入れに通うようになった。墓守二十年というのはそのことである。やがて、旧軍人や遺族会に呼びかけて、年に一度、七月の日曜日を選んで、月ケ丘戦士顕彰会という英霊供養の式を行うようになり、そのために日の丸や軍艦旗も立て、二軒の小屋も建てた。墓地の塀の色紙は、そのいつかの会のとき、それに先立って亀井さんが関係者の間を廻って書いてもらったものである。
 墓地を作ったのは三輪寅治郎という人である。いうまでもなく、亀井さんも人から聞いた話だが、昭和十二年の夏、上海の上陸作戦で大勢の戦死者が出ると、三輪寅治郎というその人がここへ地所を買い、遺族たちに呼びかけて、めいめいが戦没者の一時金(百五十円から二百円くらい)を造像費に充て、写真を基に故人の軍服姿の像を作って立てるようにした。写真で作ったというのはよくわかる。軍服姿とはいっても、銃を持ち装具を着けたのは少くて、戦闘帽ではなく正式の軍帽を被り、両手を背に廻して組み、巻脚絆をつけない両脚をすこし左右に開いて立つ姿が多いのは、外出日などに写真屋で写す兵隊の記念写真がだいたいこれだったからだろう。
 像は一人の彫刻師と四人の石工とで作ったということである。彫刻師というのがどういう彫刻師か、亀井さんの話からでは判らないが、とにかく、石でやるにしろセメントで作るにしろ、一枚の写真から立体像を作ることは、ある程度造像の心得のある者の指導がなくては、普通の石屋さんだけではちょっと無理だったろう。とはいえ、はっきり言って像は稚拙なものであるが、もともと芸術的な意図などのない、没個性的なその像がずらりと並ぶと、却ってその没個性故に、軍隊というもののイメージが、予期しないリアリティーをもってそこに生まれているのだ。それは実に不思議で、ことに整列したその像を背後から見渡したとき、突然、ああこれは軍隊だと私は思った。軍隊生活のある一瞬を如実に思い出した。
 それが、最初にその墓地へ行ったとき私がいちばん強く感じたことだったが、二度三度と行くその度に、新しい印象が加わった。没個性ということをいま書いたが、芸術的には、拙い石工たちの仕事は確かにそうでも、気が付いてみると、一つ一つの像に「生き写し」を志した、銭金ずくではない彼等の熱意がありありと見て取れるのだ。だが、「生き写し」は石工たちよりも、より一層遺族たちの願いだったろう。覚悟はしていたというものの、それにしてもあまりにも呆っ気なく死んだ息子や夫への諦めきれぬ想いは、在りし日の面影を眼の前に見たい願いになって、それが像を作る動機にもなったのだろうが、その想いは今に、墓地全体に籠っている。それがなければ、われわれが何冊も戦史を読むということもなかったかもしれない。
 しかし、それだけに、墓を建てた父とか妻とかの名が、戦死者の戦歴を記した碑文もろとも磨り消されたのが多いのを見ると、また別の切なさを感じないではいられない。初め、私はそれを風化作用の結果かと思った。それにしては、同じ時期に彫られながら明瞭に残っているのもあるのが不思議だったが、訊いてみると、終戦直後、進駐軍の追及を懼れて、夜中に墓地へ来て荒石で磨り潰した家族もあったというのである。そういう家族でも家族にはちがいない。ところが、それから三十年経った現在、百体の軍人像のうち、家族の判明しているのは二十八体に過ぎず、大部分は無縁仏だと言って亀井さんは嘆く。
 碑文を手掛りに家族が追及されるというようなことは勿論なかったが、進駐軍がこの墓地の破棄を命じてきたということはあったらしい。そのとき抵抗したのは坊さんだった。二十人の僧侶が抗議に行って、国の為に死ぬということはアメリカも日本も変りはない、あの墓をわれわれ日本人の手で毀すことはできない、どうしても毀せというのなら、自分たちをこの場で銃殺した上で、あなたたちが行って毀しだらいいだろう、そう言って頑張った。お蔭で像は毀されずに済んだということである。
 墓地で気が付いたことを一つ付加えておこう。ここのこの軍人像には、理想化の跡があまりないのだ。石工たちは戦前の日本人のカッコよくない男をカッコよくなく作った。お国のために死んだ人間だからといって、いい男には作っていない。ということは、戦争を理想化したり美化したりもしなかったということである。栄光とか勇壮とかは彼等の関心事ではなく、先程も言ったように「生き写し」がだいじだったからかもしれない。
 それにしても、と私は考える。死んだこの男たちにとって、当時の合言葉みたいだった「お国の為」とか「聖戦」とか「八絃一宇」とかはいったい何だったろう。本当にそう信じて戦場へ行った兵士がこの中に果して何人いただろうか。しかし、信じていようといまいと、死は眼前に待構えている。その避けるわけにはゆかない暴力的な死を自分に納得させるためにはその合言葉を信じるほかなかったろう。母親はまた、そうして死んだ息子の死を無駄死だと思いたくなければ、そうするしかなかったろう。愛国主義といい、軍国主義といい、ありようはそういうものだったかもしれない。

P89~
 半月後に、私はもういちど郡山へ行った。こんどは私ひとりではなく、「芸術新潮」のカメラマンのMさんと、編集部のHさんが一緒だった。後藤君の友人の佐久間さんという画家夫妻が、グァテマラに住んで、二年掛りで集めたというインディオの織物のコレクションを持っている。それを写真に撮らせてもらうためであった。
 この前、後藤君と白河へ関根正二の家を見に行った日は、その晩、郡山へ戻って、私は後藤君の引越したばかりの部屋へ泊めてもらった。引越した、というよりもまだ引越中の、これからそこへ住もうとしている部屋で、ガスも水道も出るには出るが、そういう状態の中で、独り者の彼が私に朝飯を食わせることができるかどうか心配して、同じマンションにいる石森さんという革染をやる女の人が、二人分の食事を自分の部屋へ仕度してくれた。画家の佐久間さんもやはりそのマンションに住んでいて、三人は仲間である。朝食のあと、こんどはその佐久間さんの部屋へ行き、いま言ったインディオの織物のコレクションを見せてもらった(カラー口絵参照)。
 思いがけないところに思いがけないものがあるものだ。素晴しいものだった。とはいっても、私は織物にも、インディオにも全く知識がなく、グァテマラがどこにあるのかさえよく知らない有様で、本当の値打はわかりようがないが、何にも知らないから却って、その美しさにじかに触れているということもあるだろう。注釈は一切抜きの美しさである。
 無論、点数にして二百点以上もの品物を、佐久間さんの説明を聞きながら何時間もかかって見ていたのだから、私にも若干の知識はできたが、俄仕込のその種のことをここへ書くのは遠慮しよう。そういうことよりも、コレクションの大半はカミッサとも、ウィッピールともいうらしい上着なのだが、見ながら、私はふと、人間の身を飾ろうとする本能のことを考えた。銀座にいるとファッションとしか見えないそれは、もっと深い人間性に根差しているらしいのだ。
 私はまた、婚約した男が、自分の手で織って相手の女に贈るのだという美しい帯や紐を見て、その色彩や意匠の見事さに感嘆しながら、そういう結婚の美しさの方に心をとられて行った。その他、衣裳や祭壇の掛布などの一枚一枚について、糸のことだの、染料のことだの、時代のことだの、さてはどこでどうやってそれを手に入れたかという佐久間さんの苦心談なども、聞いてもあまり頭に入らなかった。
 こんども同じことであった。佐久間さんはマンションとは別のところで絵画教室をやっていて、写真を撮るにはそこの方が具合がいいというので、みんなでそちらへ行って写したが、汗をかきながら興奮して撮影を続けていたMさんは、終ると、その間傍でただ呆んやり煙草をのんで眺めていた私に、
「取材はもういいんですか」
 と、けげんそうに言った。そのとおりで、取材なんて面倒なことは、私は全然する気にならないのであった。
 美しいものがそこにあるという、ただそれだけでよかった。




北条石仏

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7460/sekibutu1.htm

P130~

 私も、この話を書いておきたくて、本題の北条石仏を後廻しにしてこちらを先にしたのだが、ゲンロクマメのロボットは、たまたま若杉慧氏の写真集『北條石佛』の上に置いてあった。私は去年の秋から北条石仏のことを書きたいと思っていて、そのために半年以上も古本屋を探し、最近になってやっと見付けたその写真集が机の上に置いてあったのだ。
 ところで、私が北条石仏の存在を知ったのも、実は、その写真集によってなのである。昨年の夏、この「気まぐれ美術館」に「月ケ丘軍人墓地」を書いたとき、私は二、三度続けて名古屋へ行ったが、そのうちのどの折かに、マエダ画廊の前田さんから、本はこれとはちがうがその写真集を見せられたのだ。前田さんはその写真集を名古屋の古本屋で買ったところだった。こいつは凄いなあ、いちど実物を見に行きましょうよということになり、秋になって、ある日、私は東京から名古屋まで新幹線で行き、一晩泊って、翌朝、前田さんの運転する車で名神高速と中国自動車道を西に向って走り、姫路の山の方に当るというその北条へ行った。何というインターで高速を降りたか、いまちょっと思い出せないが、要するに、向こうへ着くまでは一切前田さん任せで、私はただあの石仏が見られればそれでいい。
 インターを出て十五分ばかりの、何とか羅漢寺という寺の庭に、どちら向きか、とにかく一方を向いて、全部で三百何十体かあるという石仏が、左右二つの区劃に分れ、前後七列かハ列かにずらりと並んでいる。一列が平均二十体くらいだろうか。各列の両端に、列に背を向けて外を向いているのがあり、それはそれで列になるから、前向きが十五、六列と、横を向いているのが四列あることになる。
 その横向きの四列の、まん中の二列は向き合っているわけで、横向きといっても、こちらが前へまわれば勿論前向きだが、その向き合った二列の聞かやや幅の広い通路になっていて、その通路の正面に釈迦如来(たぶん)を中心に、重立った仏が五体ほど、こちらを向いて並んでいる。もっとも、こんな排列の具合などを苦労して書くことはないので(こういうことを文章に書くのは私は苦手なのだ)、あとで知ったが、もともとこの辺りの、幾がいるので誰も近寄ろうとしなかった深い藪の中に散乱し、中には首のもげたのもたくさんあったのを、大正の半頃かに、有志の手で、ここへこういうふうに並べたのだということである。
 そんなことより、だいじなのは、中央奥の如来像その他の数体を別にして、北条石仏と呼ばれるこの石仏が、あまり仏像らしくないことだろう。羅漢でもない。とはいっても、羅漢とは何か、私は知らないが、今年になってから、偶然の機会で、埼玉のある大きな寺の有名な五百羅漢を見たけれども、仏にごく近い存在であるはずのその羅漢たちは、私には、なんだかつまらない年寄りの酔っぱらいの集まりみたいに見えた。あれが羅漢というものなら、ここにあるのはぜったいに羅漢などではない。ついでに書いておくと、これもあとで知ったことだが、何とか羅漢寺というここの寺の名称は、昭和になってからの命名らしい。いっぽう、石仏群の方は、すくなくとも四百年は経っているとのことである。
 羅漢でもなく、仏でもないとすると、いったいこれは何なのか。いや、仏にはちがいないのだろう。仏にはちがいないけれども、仏の像を作ろうとするよりも、仏にことよせて何かを作ろうとした、その何かだという気が私はする。私にとってはその何かが問題だ。
 仏像という感じがしないのは、ひとつにはその像容によるかもしれない。像容なんてもんじやない。極端にいえば、四角な石の柱の上に首がのっかっているだけのものである。おまけに、その柱がほぼ同じ寸法に揃っていて、何かの石材で間に合わせたような感じさえするのだ。およそ普通石仏というものの概念とは懸離れている。そして、首から上は丸彫りだが、肺の部分、手だの、その手の持物だのは、四角な石の前面に、なかには浮彫りのものもあるが、多くは線彫りで彫ってある。しかし、全体を一つの像として見て、それがまた、巧まざる素朴と簡潔さの見事な造型的処理と見えないこともない。
ところで、その首だが、これがまた、ちっとも仏さまらしくない。ばかりでなく、人種的にもわれわれ日本人の顔ではなくて、中にはまさしくわれ等が眷族というのも混じっているが、大方はいわゆる西洋人に近い。鼻梁が高く、鼻筋が通り、鼻の下は顎の先まで一直線で何か突出ていない。額の下で切り込んだように眼高が深く窪んでいる。
 いったい、どうしてこういう顔が、この場所で生まれたのだろう。もしかすると、伺百年前には、日本人はこういう顔をしていたのだろうか。私の写してきた写真を見て、なに、こういう具合に彫るのがいちばん簡単だからさと言った人があった。それも一見識で、実際はそういうことだったかもしれないが、不思議なのは、そのいちばん簡単な彫り方の当然の結果として同一パターンになるはずのその顔が、それなりに一つ一つ個性的で、奇妙なリアリティーを持っていることである。この像を作った人物は、一つの像ごとに、固有の人間の一人一人のイメージを心に抱いて固い石を彫って行ったのではあるまいか。とすると、そこが仏像とはちがう。生の人間の、生の人間による表現の意志が働いているのだ。まるで近代彫刻のように。
 しかし、いちばんちがうのはその目付だろう。仏像はこんな目付をしていない。仏像の視線には一つの焦点というものがない。手っ取り早くいえば、あれは瞑想する者の眼である。だが、ここの石仏たちの眼は激しく何かを見詰めている。何物かに視線を凝らしている。何百ものこういう視線が、何百年もの間、昼も夜も、雨の日も風の日も、見詰め続けたうつろな空間を思ってみて、私は戦慄した。
 写してきた百枚あまりの写真を貼付けて、取敢ず私は私の「北条石仏」のアルバムを作ったが、それをやっていて、この眼差しこそは先程言った、この石仏たちの「何か」なのだと気が付いた。もっとも、眼差しという言葉は私の語彙ではない。私がそのことを言おうとすると、目付というような品の悪い言葉になってしまう。眼差しというのは、あれはジヤコメッティの言葉だ。ジヤコメッティがどこかでその言葉を使っていたのを思い出し、だが、どこだったかが思い出せず、一夜、私はジヤコメッティの『私の現実』(矢内原伊作・宇佐見英治編訳 みすず書房)を、あちらへめくり、こちらへめくりしてみた。あった。「画家の独白二)」の中にこういうところがある。
「或る日のこと、或る若い娘をデッサンしたいと思っていた時、何かピンときたことがあった。つまり、つねに生き続けている唯一のもの、それはまなざしだということが突然わかったのだ。残りのもの、頭蓋骨になり変ってしまう頭部は、死人の頭蓋骨とほとんど同じものになってしまった。死者と生者の違いをなしていたもの、それは彼のまなざしであったのだ」「生きている者のなかで彼を生かしめているものは、疑いもなく、そのまなざしなのだ」
 だとすると、この石仏たちはやはり仏ではない。生きている、生身の「何か」ではあるまいか。



(P217~) コロー

 去年も、大晦日に、私は正平さんの家へ行った。これで三年続けて、大晦日を正平さんのところで過ごすことになる。なぜ、こういうことになったのか分らないが、こうなってしまうと、いまや私と正平さんとの、一種の歳末風景みたいなものだ。
 ただ、ことしは、ハチ公が静かだった。いつも囲いの中をぐるぐる廻りながら私に吠えつくのが、今日はまるくなって床に寝そべり、上目づかいにこちらを睨んでいるだけだった。寒いのかもしれない。
 「どうしたのかなあ、いやに大人しいな、やっとぼくを覚えたのかな」
と、私は言ったが、あのハチ公が、仮りにも私になつくなんてことは考えられない。
「齢をとったんだよ、わしらと同じだ」
と、正平さんは言う。私と正平さんとは同い年、しかも、誕生日も一日違いで、二人とも、あと半月で七十一になる。ストーブをいっぱいに燃してアトリエを暖め、正平さんは私を待ってくれていた。火の傍で私は正平さんと、絵具の付き、ということで話をした。絵具の付きがいいとか、悪いとかいうことを言うが、あれは、つまりどういうことだろう、という話である。その話も、実はハチ公から始まったのだった。まことに不謹慎なはなしだが、ハチ公はとうとう生涯独身を通したわけだなということから、コローもそうだったという話になり、コローはあれはどの絵を描きながら晩年まで絵が売れず、若いとき、結婚しようと思ったが、父親からどうやって暮らしを立てるつもりだと言ってとめられた、ということから、なぜ世間に認められなかったのかということになり、ひとつは、彼の絵具の使い方が、伝統的で頑固なサロンの大家たちには承知できなかったのだ、という話になって、絵具の付きの話になって行ったのだった。こんな話し方は、うるさい批評家先生だちとはできないが、正平さんとならできる。
 しかし、そういう話し方だから、話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりして、いつの間にか摸写の話になっていた。クールベとかアングルとか、そういった時代の画家の絵は、とても摸写なんかできない、絵具が変質してしまっていて、描いたときよりも、あるところは輝きを増し、あるいはいっそう深い色調を帯び、鬱然として近寄りがたい世界だ、ましてやレンブラント、チシアン、ファン・アイクとなれば、どう摸写しようもない。というようなことが、絵具の付きということの話で出てくる。
 かと思うと、おれの友達に、女遊びをするために絵かきになったのがいたよ、と正平さんが言い出した。絵かきになると、女遊びをするのにどういう利点があるのだ、と私が訊くと、それは、普通の勤め人とか政治家だと、女の問題が出世昇進の妨げになったり、失脚の原因になったりするけれども、絵かきならそういう心配はないからだ、と正平さんは答えたが、その辺から話が急に分りにくくなり、この齢になると、もういそいそと女のあとを追掛けて行く元気はなくなったし、歯は抜けるし、眼は何を見てもいびつに見えるようになるし、せめて絵具をいじっていることでそういったものに係わっていられるのだ、と言うので、私がまた、そうやって何に係わっていようとしているのかと訊くと、それはつまり、人間の生命力とか情熱とかそういったものだ、人はさまざまだから、やりたい者は女遊びもいいだろうが、とにかく、それがなくては絵は描けないよ、そうでしょうが、と正平さんは言い、いまのおれは、どうやって絵具の付きをよくするか、それだけ考えている、と言ったりして、話は再び、絵具の付き、に戻ってくるのであった。
 戻ってはくるが、いつまでこんなことをやっていても、問題の解答は出ない。しかし、それでいいのだ。うまい具合に答が見付かったところで、それで正平さんの絵具の付きがよくなるというわけでもない。絵の仕事というもの、あるいは、絵についての議論というものはそういうものだ。


(P223~)

 それほどはっきりした恐怖感ではないが、もっと漠然とした、捉えどころのない不安のようなものに、この頃、私は始終つきまとわれている。暗い気分で目が覚める。寝覚がよくない。
 考えてみると、どうやらそれは、いつか「夏の花」の章に書いたように、去年の夏、私が奈良へ行き、四日ほど飛鳥を中心に歩き廻ったあげく、その四日目の夕方、川原寺の発掘された遺跡の礎石の上に腰を降ろし、缶ビールを一本飲みながら懐旧の情に耽ってやろうと思い、さて石の上に上がってみると、それは本物の石ではなく、プラスチックの摸遺品だった、あのときから始まっているようなのだ。
 あのとき、私がその気になったのは、その石が千年の昔からそこに在ると思えばこそで、プラスチックと知ってしまえば、今更そんなものに腰掛けて天平の世を偲んでみてもはじまらないと思い、折角の思付きを中止して帰ってきてしまったが、そのときの何かが、あとになって応えてきたのだ。本物の石だとばかり思っていたものがプラスチックの摸遺品だったことで、一瞬私の陥った錯乱のようなものが、いうなれば、世界全体に拡がりはじめたのである。大袈裟なことを言うようだが、そんなふうにしか言いようがない。ついでにもうちょっと言うと、文化財保護の見地からいえば、かけがえのない本物は地下に沈めて、その上に、いつぶっ欠かれてもいい模造品が据えてあるのはちっとも悪いことではない。むしろ評価さるべきことで、文句を言う筋合はない。私は黙って、プラスチックに坐ってビールを飲めばいいのだ。しかし、見せかけでいい、間に合いさえすれば本物でなくてもいいというこの世界の気持の悪さ。本物と贋物が等価であるこの世界に、私はどう向い合えばいいのか、それを思うと生きた心地がしない。私自身がその世界の中で解体されて行きそうな不安と、
居心地の悪さに、私は悩まされるのだ。
 こんなことで不安になったり、怯えたりしているのは、人から見れば笑止の沙汰だろう。自分でも滑稽だと思いながら、だといって私にはどうにもならず、そのことばかり考え続けて、心のどこかで放心状態が続いたが、そういう中で、十一月だったか、私は偶然、名古屋のマエダ画廊の前田さんの家に二日ほど泊まることになった。仕事の日程に手違いがあって、二日空白ができてしまったのだ。
 前田さんのアパートの裏側はちょっとした崖に面していて、そこに、雑木林というとこれも大袈裟になるが、宅地開発で取残された雑木林の名残りくらいの樹が、斜画に疎らに生えている。昼間、前田さんは画廊へ行き、奥さんも勤めに出ると、あとは私一人。私に提供された部屋の窓辺に坐っていると、窓に射す日脚が徐々に移って行き、その窓の外を、風に吹かれる落葉がひっきりなしに飛んで行く。

「ちょうどいい機会ですよ、疲れてみえる(いられる)んだから、すこしゆっくり体んでください」
 前田さんはそう言って、なるべく私を一人にしておいてくれた。奥さんも、勤めから帰ってくると、私には声を掛けず、音を立てないように台所仕事をしている。テレビはイヤホーンをつけて見ているようだった。
 二日間、そんな時間が続いたあと、私は生返ったような心地になっていた。東京へ帰ればまたもとのままだろうが、自然というものがこんなに人間の心を落着かせてくれるものかと、私は窓の外を飛び続ける落葉を見ながら思った。気が付いてみると、その二日間、私は新聞を読まず、テレビも見ていなかった。
 あれは、というのは前田さんの家に二日いて、終日、裏窓の外を陽に輝きながら飛び続ける落葉を見ていて、自然というほどの自然でなくても、とにかく本物の自然の欠片のようなものでも、こんなに私の心を落着かせてくれるのかと思ったそのことだが、あとで気が付いたのだが、その、あれには、前田さん夫婦の友情ということがあったのだ。ヽ私を落着かせてくれたのは前田さんの友情と、その友情への私の信頼だった。
 存在とか世界とかいってみたところで、私なんかには、宗数的な、ミスティクな体験によって絶対者に触れるというようなことはできそうもなく、物事を哲学で論理的に究めて行くこともできない。学問もないし、だいいち、もうそんな暇がない。しかし、風に飛ばされて行く落葉とか、友情とかで、私は何の戸惑いもなく、その瞬間に、自分が世界と一つであり、世界は私を含めての世界であることを感じることができる。そうだなあ、私にはこれだなあ、とそのとき私は思った。

(中略)

 いまこの原稿を書いている現在、日本橋高島屋で《印象派・後期印象派展》(ロンドン大学コートールド・コレクション)というのをやっている。私は、普段は人形町から地下鉄日比谷線で東銀座へ行き、画廊へ行くが、東西線を使って茅場町、日本橋廻りで銀座へ出るというてもあるので、時間があればそちらで行って、もう何回か見た。
 その最初に行ったとき、会場へ入ってすぐの、ブーダンの「ドーヴィル」という絵の前で、私は、自分でも全く予期しなかった種類の感動を昧わった。どういう感動かを説明するために、その前に書いておかなければならないが、中学時代、私の十五、六歳頃、芸術開眼はおこがましいが、私が絵の世界にはまりこんだのは、印象派によってなのである。私が自分の小遣で初めて買った画集はモネだった。その画集の中で私は、自分の町の町外れの、ひたひたと水の寄せる草に覆われた川岸や、いっぱいに陽を浴びたポプラの並木などをさながらに見たのだ。というよりも、少年の私が、そういう風景の中で感じる感傷や、何か遠く遥かなものへの憧れが、その画集の頁の間にあった。
 ブーダンの絵の前で、一瞬、私はその少年の日に戻ったのだ。ああ、あの頃、空はこんなふうに高く、雲はこんなふうに夢想を孕んでいたなと思った。セーヌの広々とした水面に、対岸の四、五軒の白い建物と、一本の白い煙突とが並んで長い影を映しているモネの絵を見ると、あの頃、いつか、しかし確かに、こんな具合に水に揺曳する明るい影を見ている瞬聞か自分にあったと思う。田舎の小駅を発車して行く汽車を描いたピサロの前では、少年の眼に、汽車の煙はいつもこんなふ
うに空へ消えて行ったと思うのだ。
 印象派は、私にとっては特別のものなのだ。「印象派の画家たちは、色彩をパレットで混合せず、大小の筆触によって並列し、それらが視覚のなかで混合するとき、光の効果を生む技法を用い、また画面から黒を追放して……」という決り文句の解説が、プレートにして場内の一隅に掲げてあるが、私の印象派は、そういうこととは関係がない。印象派は、もう少年の頃から私にとって、萩原朔太郎の言葉を借りれば「時間の遠い彼岸に於ける心の故郷」なのである。
 セザンヌで私は一つの発見(私にとっての)をした。セザンヌは、必要とあれば、物の質感も、色も、捨ててしまうかのようである。物の物らしさを捨てて顧みないのだ。
 セザンヌの果物を、例えばマネの「フォリー・ベルジェール劇場のバー」の前景右手の、ガラスのコンポートに盛られた柿と比べてみてもらいたい。柿はフランスでも「カキ」だそうだが、この柿の色といい、肌の艶といい、輝きといい、マネはこの柿の柿らしさを描くことに無上の喜びを感じているように見える。それに比べると、セザンヌの果物はまことに素気ない。玉葱はまあ形で見分けがつくが、林檎は林檎であっても梨であっても桃であっても何でもいいみたいである。「ジャ・ド・ブーファンの大きな樹」の葉っぱは、風が吹いてきても動きそうもない。季節もよく分らない。というよりも、見ていて、そんなことは一向気にならない。これを、同じ部屋の、ルノアールの「ポン・タヴェンの外れ」と比べてみれば、両者の違いはいっそうはっきりする。(好き嫌いでいえば、私はこのルノアールの絵の方が好きだ)
 必要とあれば、といまさっき書いたが、それではセザンヌは何を必要としているのか。私の勝手な解釈だが、セザンヌは、ただひたすら秩序を求めているのだ。そのためには、色が喋り過ぎれば色を黙らせ、質感が喋り過ぎれば質感を黙らせる。そして、物はその秩序に従うことによって、らしくなくても、らしい以上に存在を特つ。
 素人の言うことだから、言葉の使い方の不適当は大目に見ていただくことにして、セザンヌの、この厳然たる秩序の確信は、私には、何か中世を思わせる。この展覧会を特集した「芸術新潮」(一九八四年一月号)のタイトルは「セザンヌは近代絵画の〈父〉か」となっていて、それはそうにちがいないだろうが、セザンヌの眼差しは中世的世界に向けられていたのではなかったかという気が私はしてならないのである。もしそうなら、いまの私の求めて止まぬものがここにあるはずだ。そう思って、会場へ行くといつも、私はその部屋のソファーに、時間の許す限り坐っていた。



(P259~) 三ヶ根
 何もかも嘘。おそらく、戦争というものの本体は、そういう各種の戦争論や戦争観とは関係がないのだ。
 一切の戦争論議を余所に、戦争は戦争自体の論理で発生し、進行する。メカニズムは自動的に回転している。確実なのは戦争というその事実だけだということを、その本はそんなことを言っているわけではないが、その本を読んで私は痛感した。私は息をのむ思いで『昭和の将帥』を読んだ。
 「気まぐれ美術館」を書くためだけなら、こんな本を読む必要はない。それが分っていながら、この本だけでなく、ここ三、四ヵ月の間に、私は服部貞四郎『大東亜戦争全史―全四巻』(鱒書房)、重松一義編『巣鴨プリズンの遺構に問う』(槇書房)、実根譲『巣鴨』(図書出版社)、児島襄『東京裁判(上・下)』(中公新書)、若松斉『絞首台のひびき』(開発社)などを次々と読んだ。こういう本を読んでいると、たいていの美術評論などはアホらしくて読めなくなる。
 ご覧のとおり戦犯関係が多いが、事の起こりは三月の名古屋行である。マエダ画廊の前田さんと知多半島の野間へ行ったことは、三回前の「足を濡らす」に書いたが、そのあと、私たちは半島の突端まで行ってみた。そこまで行くと、伊勢湾とは反対側の、三河湾が一望に見える。もっとも、日が落ちて、海の上はまっ暗だったが、遠くに燈火のチラチラしている、蒲郡あたりとおぼしい方角を指差して、三ヶ根山というその辺の山の上に、極東国際軍事裁判で絞首刑になった東条英機たち七人の墓がある、と前田さんが教えてくれた。
 そう言う前田さんもそこへ行ってみたことはなく、そうなった事の経緯も知らないのだったが、東条英機らの墓がそんなところにあるということも意外なら、処刑した戦犯の遺体は遺族に渡さず、遺骨は飛行機で洋上に撒布することになっていたのを、どういう手立を使ってか、誰かが持出して、ひそかにそこへ葬ったらしいという前田さんの話も、そんなことが本当にあったのかと思われるような話で、私は言葉もなく、ただ暗い海の彼方を見詰めるばかりだった。
「暗いですねえ、こういう夜の暗さを、ぼくたちはもう忘れてしまいましたねえ」
 と、身を包みこんでくるような濃い闇の中で前田さんが言った。実際、傍に立っている前田さんの顔もよく見えないような暗さだった。前田さんがどこの夜を思い出しているのかは分らない。私は、そう言われて、北支の戦場の夜を思い出した。あそこでは、闇が掌に掬いとれる物体であるような、そういう暗い夜があった。
 五月二十九日の朝日新聞に〈処刑場の記念碑は憲法違反 豊島区に維持費返還求め12人が訴え〉という見出しで短い記事が出ていた。短いといっても全文ここへ引用するのには長過ぎるので、頭と尻尾の部分だけにするが、次のとおりである。面白くはないが、とにかく読んでみてください。
 〈東条英機元首相らA級戦犯七人が処刑された豊島区東池袋三丁目の旧東京拘置所(巣鴨プリズン)跡地に、豊島区が処刑場の記念碑を建てたのは、「憲法違反で、区の維持管理費支出は違法」として、同区西池袋二丁目、豊島平和委員会代表福山秀夫さん(六〇)ら同区住民十二人が二十八日、日比寛道区長を相手どり、碑の維持管理費百三万円の区への返還を求める訴えを東京地裁に起こした〉
 そして〈「碑文は、刑の執行が戦争による悲劇であったかのような文脈で、戦争犯罪人を戦争犠牲者にすりかえて顕彰しており、①戦争遂行責任の所在を不明確にし、その免責につながるもので、永久平和主義の憲法に違反②歴史的事実をねじ曲げ教養を誤まらせる遺跡であり、都市公園法違反だ」〉というのが提訴の理由である。
 「教養」には恐れ入りました。私のような無教養な人間が何を言っても聞いてはもらえないだろうが、私はむしろ、巣鴨プリズン跡に地上六十階のサンシャインビルを建てたりするよりも、プリズン当時の姿をそのまま残しておく方がよかったと思う。日本民族の屈辱の記念になるか、戦争の悲惨を目のあたりにすることで平和への決意を新にすることに役立つかはしらないが、いずれにしても、これこそが「ねじ曲げ」ようのない「歴史的事実」ではないか。
 法律論で来られては、これまた私のような者は恐れ入る他はないが、しかし、そもそも極東国際軍事裁判の法的根拠というものが疑わしいのではなかったか。そういう問題になると、私などが下手なことを言うよりも、先程挙げた児島襄氏の『東京裁判』を読んでもらいたいが、戦争を裁くなどと立派なことを言ってみたところで、しょせん戦勝国と敗戦国という関係でしか行われないのであってみれば、どうせまともな筋書で裁判が行われようはずがない。早い話、〈人道に対する罪〉にしても、原子爆弾投下を棚に上げておいて、投下した方がされた方を裁くというのはナンセンスではあるまいか。どの本で読んだか、もう忘れてしまったが、広田弘毅被告の夫人は、最初に公判を傍聴したその日、
「聞く耳持たぬという裁判ですね」
 と言って、その後は一度も傍聴席に姿を見せなかったらしい。


資料 洲之内徹 ウィキペディアより

以下はウィキより引用
洲之内徹
概説[編集]
松山生まれ。松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1930年に東京美術学校建築科に入学。在学中にプロレタリア運動に参加、1932年に検挙され、学校は退校処分となって帰郷した。そして松山でも運動をつづけ、1933年、徴兵検査後に検挙・収監されたが、後に「転向」して釈放された。その後1938年に軍の宣撫班員となって中国大陸へ渡り、対共工作と情報収集に携わった。そして終戦を迎え、1946年春に帰国した。
戦後、郷里松山に引き揚げて古本屋を開業。その傍ら小説を書き始め、「鳶」「雪」で横光利一賞候補に2回選ばれた。
1952年に中国時代の友人田村泰次郎の勧めで上京。妻と3人の息子を抱えつつ無収入で小説を執筆し、一家離散を経験。田村の紹介で『群像』誌に小説「棗の木の下」を発表。この作品と「砂」で芥川賞候補になること2回。田村が1959年に「現代画廊」を開くとそこに入って支配人として働き、1961年に田村が手を引いた後、同画廊の経営を引き継いだ。その間、松山の同人誌『文脈』に発表した「終りの夏」が、1962年に3度目の芥川賞候補となるも、やはり受賞を逸した。
その一方で洲之内は1962年末から1964年春にかけて「愛媛新聞」の美術欄に後の「気まぐれ美術館」の先駆となる美術エッセイを連載した。そしてその後も色々な雑誌・新聞や画廊で開く展覧会図録など多くの場所に文章を書いていたが、1973年に書き下ろしの美術エッセイ集「絵の中の散歩」を新潮社で上梓したのち、いよいよ1974年1月号から「芸術新潮」誌に美術エッセイ「気まぐれ美術館」の連載を始めた。この「私小説的美術評論」の連載はしごく好評で、文芸評論家小林秀雄から「いま一番の批評家は洲之内徹だね」と激賞された。青山二郎は「『芸術新潮』では、洲之内しか読まない」と公言し、白洲正子に洲之内のエッセイを読むよう勧めた[1]。「気まぐれ美術館」は休載なく足掛け14年、165回続き、1987年10月に洲之内が倒れ、意識不明のまま月末に亡くなり、突然の終わりを告げた。
現代画廊[編集]
「現代画廊」は最初は作家で美術マニアであった田村泰次郎が1959年に西銀座に開いた画廊であった。田村が画廊を開いた目的は国内外の抽象絵画の紹介であったが、それは画廊を手伝うために入社した洲之内の嗜好とは必ずしも一致しなかった。ほどなく1961年に経営不振で田村が手を引くと、洲之内が店の名を引き継ぎ、同じビルの3階へ移って、「萬鉄五郎展」で新装開店した。
やがて1968年に画廊は銀座6丁目の松坂屋の裏手にある古いビルの3階に引っ越し、本人が「銀座で一番ちっぽけな画廊」と自負する、いわゆる「洲之内徹の現在画廊」の時代が始まった。このビルは関東大震災直後に建てられた堅牢な建物で、その由緒ある年代物のエレベーターは「扉の開閉ひとつにもコツが必要で」「訪れる人にしばしば敬遠」されたという。この場所で洲之内は最初にかねて想を温めていた「靉光画稿展」を開き、その後もさまざまな異色の展覧会を企画・開催して、倒れる1987年までの約20年間にその数は260回を超えた。またここには多くの個性あふれる人々が往来した。
画廊主としての洲之内は自分が「佳い」と思った多くの無名画家に個展の場を提供し、またしばしば物故した画家の遺作展を開いた。遺作展の準備には中古のライトバンを自身で運転して現地に赴き、関係者と折衝し、その作品の所在を確かめて出品を依頼するなどの作業を精力的にこなした。こうして洲之内は佐藤哲三を始めとする多くの画家を発掘、紹介し、またその過程をこと細かく「気まぐれ美術館」に書いてエッセイの人気を高めた。 また洲之内はしばしば地方の画廊と連携して「現代画廊」で開いた展覧会を地方に巡回させ、売り上げ増加を図ったが、その作品の移動にも経費節約のため自分の車を使った。「売れない画家ばかり扱っていた「現代画廊」の経営は大変だったようである」が、「洲之内には不思議な商才があって、なんとか辻褄を合わせて」いた。また美術評論家の土方定一を尊敬していた。
洲之内コレクション[編集]
洲之内は画商ではあったが、本当に気に入ったものが手に入ると手元に残し、客には売らなかったので、時には客との間で『これを売ってくれ』、『いや駄目だ、これだけは』との押し問答が繰り広げられ、客をして『とにかく、コレクターと画商の二重人格というものは、もう迷惑千万』と呆れさせた[2]。結果として手元には洲之内の美意識を反映し、時代を証言する貴重な作品が溜まった。洲之内の没後はこれら愛蔵の絵画・彫刻146点が一括して宮城県美術館に収められ、「洲之内コレクション」として舘蔵された。そして館内には「洲之内コレクション」のコーナーが設けられて常時20点ほどが展示され(展示替えあり)、全作品を展示する「洲之内コレクション」展も複数回開かれている。
著書[編集]
『絵のなかの散歩』新潮社、1973年
『気まぐれ美術館』新潮社、1978年
『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社、1980年
『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』新潮社、1983年
『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社、1985年
『さらば気まぐれ美術館』新潮社、1988年
※以上6冊の函入りセットが、2007年に一括復刊された、新潮社。また『気まぐれ美術館』、『絵のなかの散歩』、『帰りたい風景』は、1996~99年に新潮文庫(品切)で再刊された。
『芸術随想 おいてけぼり』世界文化社、2004年
『芸術随想 しゃれのめす』世界文化社、2005年
『洲之内徹文学集成』月曜社、 2008年、下記の大半を収録。
『洲之内徹小説全集 第一巻 流氓』東京白川書院、1983年
『洲之内徹小説全集 第二巻 ある受賞作家』東京白川書院、1983年
『棗の木の下』現代書房、1966年
『洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵』 求龍堂 2008年、画文集

資料 洲之内徹 セザンヌの塗り残し

(P58~) 柳瀬正夢 日本共産党
前線停滞
 地方のある画廊で編集して出している小冊子に、頼まれて、五枚の原稿を書いて送ったら、ちょっと具合が悪いといって、送り返されてきた。返されるような原稿だから無論、出来はよくないが、返されたのを幸い、これから書くこの稿のアタマに使うことにする。これで今回は、五枚ぶんはもう出来たというわけだ。「雨の日の手紙」という題である。

 ――夜明け近くになっても、私は机の前に坐って、煙草をのんでいるだけであった。約束の短い原稿を、どうしても書き始めることができない。どう書き出したらいいのかわからない。雨が降っている。

 雨のほうはゆうべから降っている。夜が明けても降っている。すこし寒い。というのも、私は浴衣がけである。夏と同じ浴衣を着て、その肌寒さでみぞれのことを考える。みぞれの降りだすころの新潟の、出湯温泉の山の、私の山小屋の薄暗い午後のことを思ってみる。あんな淋しさは他のどこにもない。消え入るように淋しい。だが、私はあの淋しさが大好きだ。純粋に淋しく、光っているような淋しさ。あれでなくちゃあと思う。何があれでなくちゃあかは判らないが、そう思う。
 夜が明けてしまうと、今日は選挙の投票日だった。勿論私は行かないが、行くとしても、共産党にはゼッタイ入れないぞ、と思う。二、三日前、夜中に、新宿の酒場にいたとき、誰かが、中野重治の死んだことを「アカハタ」は一行も書かなかった、と言った。まさかと思い、しかし、ありそうなことだとも思った。嘘か本当かはしらない。しかし、ほんとうなら、なんというケチな根性だろう。あいつらは、もう本当に駄目だ。救われない。
 去年、中野重治氏に会ったとき、あれは柳瀬正夢の遺作展のことで行ったのだったが、党の柳瀬評価の偏狭さには手を焼いているという話を私がすると中野さんは、
「いまの共産党というのはご承知のとおりだからねえ……」
 と、微かに笑って、多くを語らなかった。
 そんなことを次々と思い出しているものだから、原稿はいつまでたっても書けない。十時頃になって、原稿は諦めて、信濃デッサン館の窪島さんに手紙を書いた。
 窪島さんは数年前、渋谷でキッド・アイラック・コレクショシ・ギャラリーという長い名前の画廊を開き、以来、探し集めた村山槐多、関根正二、靉光などを中心にその他何人かの、五、六十枚のデッサンで、最近、長野県上田の在の、別所温泉の近くの山中の、あるお寺の地所の中に、信濃デッサン館という小美術館を作った。
 二十年前くらいまでならいざ知らず、いまや、関根正二や村山槐多の未知の作品が見付かるというのは奇蹟に近い。靉光にしてもそうである。そんなものはもうないということになっている。ところが、窪島さんはそれを探し出す。窪島さんが探すと見付かるのだ。奇蹟を実現させる窪島さんの執念は、去年だったか、とうとう自分の実の父親を探し当てた。窪島さんは終戦前後の混乱の中で見失われてしまった、水上勉氏の息子だったのだ。そのことは新聞や週刊誌で、もう誰でも知っている。
 信濃デッサン館は、たしか、今年の五月か六月に出来たのだ。開館式の日が月末だったので、招待されていたけれども私は行けなかった。月末は毎月、私は「気まぐれ美術館」の原稿書きをしていて動きがとれない。で、先日、車で長野へ行ったとき、初めて寄ってみたのだった。上田で小崎軍司氏を訪ね、小崎さんに車に同乗してもらい、小崎さんの案内で行ったが、小崎さんはデッサン館創設の最初からの協力者だったはずなのに、その小崎さんが道が判らなくなり、変な山道に入りこんでしまったりした。そんな不便なところであった。
 なぜこんな不便なところに、とは誰しもが思うところだろう。ところが、行ってみてよくわかったが、見たいものを見るためには、時間と手数をかけるのが当り前なのだ。東京は万事便利過ぎる。便利過ぎて、肝腎の絵はオチオチ見ていられない。ここで見ると、デッサンの一枚一枚が、静かな山の空気の中で、微光を放っているように見える。絵はこういうふうに見るものだと強く感じた。
 そのことを手紙に書いた。実は、その前に窪島さんから手紙をもらっていた、それに対する返事である。聞けば、窪島さんは週の半分以上そのデッサン館のほうに来ていて、いまでは東京よりもそちらにいるほうが多いのだそうであるが、私が行った日はちょうど不在だった。どうも失礼しました、と窪島さんは書いてきたが、そんなことと知ったら、私こそ、窪島さんの在否を確かめてから行けばよかったのだ。ところで、今日の彼はどうなんだろう。手紙の宛先はデッサン館にしたが、あちらもやはり雨だろうか。――

 以上の原稿で具合が悪いのは、私が共産党の悪口を言っている部分だった。そこの画廊には後援会があるが、その後援会には共産党の人が多いのだという。なるほど、それではお困りだろう。共産党が「ご承知のとおり」なのは、中央だけかと恩ったら、末端までそうなのであった。



(P77~)

失われた手紙
 一年に一回か、三年に一回か、それは判らないが、とにかく間をおいて、しかし、繰返し見る恐ろしい夢が私にはある。そのときどきで設定と情況は変るが、筋立ても、構成の要素もほぽ同じで、覚めてから、同じ夢だとわかるのだ。十一月に長野へ行き、湯田中温泉に泊まった夜、その夢を見た。
 ここから先はその夢の話――。私が大森駅のホームから階段を上ってきて、改札ロヘ行きかかると、右手の事務室の扉(実際にそんな扉があるかどうかは不明)があいて、中から草色の米軍の戦闘服みたいなものを着た人物が二人現れ、一人が私の横腹に拳銃を突きつけ、二人で私を中に挟んで連行した。そのときどきで設定と情況が変るというのはこういうことで、大森駅が出てきたのも初めてだし、人物も、いつもはこれが私服の特高警察の刑事なのである。ただ、私が突然逮捕される点は同じなのだ。
 次に、私は警察の留置場の中にいる。すると、どこからか姿の見えない相手の声が聞えてきて、私に、「お前は裏切者だから殺す」と言う。(この裏切者というのも、その晩の夢でははっきりそう言ったが、いつもはどうなのか思い出せない。とにかく何か、私には承知できない理由をつけて殺される)。ところで、どういうわけか、いま自分が吹矢のようなもので頭を狙われているのが私にはわかっているのだった。
 どこから飛んでくるのかわからないその吹矢の矢を逃がれようとして、私は腕を上げて頭を抱え、狭い房の中を走り廻って、壁の隅にしゃがみこんだり、同房の人間の陰にかくれたりする。しかし、そのかいもなく、矢はもう私の頭に刺さっている。その矢は毒矢で、あと数分で私は死ぬのだ。
 すると、留置場だったはずのその部屋は刑務所の独房みたいなところに変っていて、私は完全に周囲から隔離されており、私の死の目撃者は誰もいない。死ぬのはしかたがない、と私は案外平静に考える。しかし、自分は裏切者ではない、裏切者にされているが本当はこうなんだ、ということだけは言っておきたくて、手帳を破ってそれに走り書きの手紙を書き始める。だが、いったいどうやってそれを届ける気か。その方法がないし、それに、そんな手紙を書く相手もいないことに気がついて私は絶望し、孤独感に襲われ、戦慄する。この夢の恐ろしいのはその瞬間である。
 目が覚めると雨がびしょびしょ降っていた。目が覚めても、夢の中の絶望感は続いている。というよりも、醒めた意識の中へ移されると、その絶望感は却って強い力で胸を締めつけてくるのだ。むしろ覚めてから苦しくなる。早く現実に戻ろうとして、起上がって三間続きの部屋の明りを全部つけてみたがあんまり効果はない。
 私は東京の自分の部屋でもこういう目の覚め方をすることがあり、そういうときは時を構わず外へ出て、しばらく深夜の街を歩いてくるのだが、旅館ではそうはいかない。しかたなく、風呂に入ってみることにして、シーズンオフで泊まり客の殆どないらしい大きな旅館の、森閑とした暗い長い廊下を、うろ覚えであちらこちらへ曲り、途中いちど階段を昇り、別の階段を降りたりして風呂場へたどり着くと、人がいなくても湯の溢れ続けている夜更けの広い浴槽の中へ身を伸ばして、はじめて自分を取戻した。ああ、またあの夢を見たな、と思うのだ。
 死の恐怖は――Iと、そこまできて私は考える。死そのものが怖いのではなく(それはひとつの事実に過ぎない)、死に直面したときの生の怖さではあるまいか。三回か四回前の「めいめいの椅子」の中でちょっと書いたヴィトゲンシュタインという哲学者は、死は哲学の問題ではない、と言っているそうだが(これも坂下広吉君からの聞き齧りだが)、それはこういう意味なのかもしれない……。
 私はまた、こんどは半分お湯から上って、湯舟の縁に腰を掛け、脚をお湯の中へ伸ばしながら、森田英二と吉岡憲のことを次々と考えた。森田英二は四年前、発作を起して錯乱し、精神病院に収容された。吉岡憲が東中野の国電の踏切で鉄道自殺をしてからもう二十何年かになる。私は森田英二はよく識っているが、吉岡憲には面識がなかった。しかし、その二人の画家のそれぞれについて書いたことが何度かあり、いまでも画廊でこの二人が話題に上ることがよくある。しかし、考えてみるとその話題というのは、ともすれば森田は分裂症と躁鬱病のいずれかとか、吉岡の自殺の原因はほんとうは何かというようなことに終りがちで、分裂だろうと躁鬱だろうと、発作を起した瞬間の森田の精神を捉らえた憂愁や、原因は何であろうと、接近する電車の前に自分の五体を投げ出そうとする吉岡の孤独と絶望に、思いを致すということはまずないのだ。だが、そのことを思わずに、彼等について思う何かあるというのだろうか。
 ともあれ、こういうことを考えているうちに、私自身はすっかり平常に戻っていた。お湯から上って浴室の電燈を消し、また暗い長い廊下を通ってきながら、明日の車の行程を思うと雨の音が気になった。
 去年は秋の終り頃から私は出歩いてばかりいた。長野の前はどこだったか。そうだ、高松だ。高松の前が酒田と新潟。高松は往き帰り飛行機だったが、酒田のときは車で、東北自動車道で仙台まで行き、そこから西へ向って山を越え、天童から再び北へ向って村山、尾花沢、新庄を通って酒田へ出た。肩が石のように凝ってしまい、通りかかった尾花沢の道端の薬屋でカプシプラストを買って、夜になっていたのを幸い、車の中で裸になって首筋から肩へべたべた貼り、酒田へ入ったときはカチカチ山の狸ではないが、背中が燃えているようであった。京都へも行っているのだが、長野の前だったかあとだったか、いまちょっと思い出せない。
 十二月に入ってからは、まず山口県の宇部へ行き、そのあと十二月中にもういちどずつ、長野と新潟と京都とへ行った。京都以外は全部車で、よく、歳を考えてあんまり無理するなとか、もう運転はやめろとか、たいへんだろうとか言われるが、私は車は好きだからあまり苦にならない。むしろ、途中で体むか何かした析に自分のオンポロ愛車をつくづくと見て、よく走ってくれるもんだなあと思う。ひとりで車を運転して途い見知らぬ土地を走っている、ちょっと淋しいような、しかも自由な気分はなんともいえない。それもいいし、深夜の高速道路のサービスエリヤで、何十台もの長距離使の大型トラックやトレーラーがエンジンを掛けっ放しにしたまま駐車している、男臭い風景なども大好きだ。

 とはいえ、無論、私は楽しみで運転しているわけではない。私の車はライトバンで、往きか帰りのどちらか、ときには両方とも、荷物をいっぱい積みこんでいる。あちこちの展覧会のための絵を持って行ったり、持って帰ったりするのだ。これをやっていないと微力弱小な私の画廊は潰れてしまう。しかも、その合間合間に私は原稿書きなどもするから、必ずと言っていいくらい、出発前の二、三日はあまり寝ていない。三時聞か、せいぜい四時間しか眠らない夜が続いている。その挙句の出発ということになるので、走り出した第一日がいちばん辛い。居眠りしないよう、眠くなると知っている限りの歌を全部(といっても四つか五つだが)繰り返し、切れ目なく、どなるような大声で歌いながら走る。軍歌の次に讃美歌、讃美歌の次に「ステンカラージン」、それから三高ボート部「琵琶湖周航の歌」という具合で、まるで気違いだ。
 宇部へ行ったときは、朝の八時に東京を出て東名、名神、中国自動車道を順々に走り、夜の九時頃、岡山県の津山にさしかかった。これでも判るとおり、私は気をつけてわりとゆっくり走っているのであるが、更に要心して、津山で高速道路を降りて町の旅館に泊まった。
 どこでもいい、市街の方へ走ってきて、最初に見付かったのがその旅館だったのだから当然だが、泊まってみると、私の窓の下を、ひっきりなしに車が走り過ぎる。私も車で来たのであってみれば文句は言えないが、風呂の湯はぬるくて濁っていたし、トイレヘ行くと、スリッパが変に湿っぽく、おまけに底というのか表というのか、足の裏ののっかるところがよれて皺が寄り、固まった皺の出っぱりが、何か踏んづけたような具合に足の裏に触って気持が悪かった。部屋の中には漫画の本が数冊と、ポルノめいた写真だけの雑誌が一冊、壁際に積重ねて置いてあった。
 それでも私は、この旅館になんとなく好感を持ち、一種の満足さえ感じた。要するに、こういうところが私の柄に合っているのだろう。私は安らかな気持で、矩龍の中でしばらくその漫画の本などを見、勿論ポルノ風写真集も見てから蒲団の中へ入ったが、もう半分眠りながら、ふと、死を眠りと考えることができるといいなと思った。無論、これは私の新発見でも何でもない。昔から、永遠の眠りとか、眠るような大往生とか、眠っているような死顔とかいう言葉があるではないか。死とは、もしかするといまの私がそうであるように、ああくたびれた、寝よう寝よう、というようなものであるのかもしれない。それはやっぱり哲学の命題ではないようであった。


(P83~) 今西中通
 今西中通の死んだ翌年、昭和二十三年の二月、終焉の地の福岡で遺作展が開かれ、そのとき彼の先輩友人たちから寄せられた追悼の辞を集めた『今西中通を偲びて』という小冊子があるが、その中で赤堀佐兵氏が、いま言った手紙のことを書いている。中通が死の前日に書いたその手紙は、彼の死後十日あまりして、久仁子未亡人から赤堀氏に送られてきた。判読に苦しむほど乱れた鉛筆のなぐり書きで、訣別の言葉と、友情の思い出と、死の苦痛を書き綴ったその手紙を読みおわると、赤堀氏はそれを仏壇の中へ置いた。「(私は)別に仏教信者では有りませんがこうしたものを置く他に適当な場所を知りません」。それからまた、「この手紙の全文を発表してはと思いますが何んだか今西君の全裸の姿をだれかれなしに見せる様な思いがして今暫く二人の間に秘して置きたいと思います」とも赤堀氏は書いている。手紙が雑誌に掲載されておればまだしも、借りられただ
けで活字にならなかったその手紙は、たった一人、その手紙の中身を知っていた受取人の赤堀佐兵氏が故人になったいま、見たくても、もう誰も見ることはできないのである。
 死を間近に意識した今西中通の姿を、同じ小冊子の中で、野見出暁治氏が伝えている。今西中通は終戦の年の秋、福岡に絵画研究所を作ろうとしたその地の友人達に招かれて、四国の坂出から移ってくる。野見山さんはそのとき初めて中通に会うのだが、秋とはいっても、北九州はまだ夏だったろう。蝉の声がうるさい昼さがりだった、と野見出さんは書いている。しかし、「今西さんの体を気遺わずに眺めたのは、その夏の日の姿だけしか私の記憶にはない」というように、その後の今西中通の病勢は、二年足らずのあいだに、急速に悪化して行ったらしい。
 すでに咽を侵され、声もかすれてきていながら、入院した病院から淋しいといって四、五日で家に帰ってしまい、生まれたばかりの女の子と並んで寝ている中通を見つけた野見山さんは、乳児にとって結核菌がどんなに恐ろしいかを、ほとんど憎悪をこめて、このわがままな病人に説く。すると、中通は気弱に、オレは女房や子供を見ながら死にたいんでなあ、と哀願するのだ。
 衰弱が進み、ベッドの上に起上がることができなくなってからは、彼は奥さんにカンバスを持ってもらい、指定した色を筆先につけさせて、寝たまま絵をかいた。「仰向けになって細い腕を動かしているサマは、カイコがマユをあむように切なく、生きることに懸命のようであり、死に急いでいるようにもみえた」と、野見山さんは書いている。




(P115~) 北一輝

 佐渡から帰って、佐渡の続きで読んだ本がもう一冊ある。松本健一著『若き北一輝』という本だが、この本でも私はビックリした。思いもよらぬ長谷川潾の名前が出てきたからである。
 前々回の「佐渡」に書いたとおり、私は佐渡で北一輝の墓を見たいと思いながら雪のために果せなかったのであるが、帰ってしばらくすると、沢根の土屋さんから手紙が来て、中に、ゼロックスでとった本の頁のコピーが一枚と、北一輝の墓の写真とが入っていた。そのコピーは、いま言った松本氏の『若き北一輝』のあとがき中の、北の遺骨が両津市へ帰り、椎崎の墓地に葬られるまでの経過を記した部分で、私が土屋さんの家でご馳走になった晩、そこへ来て一緒に飲んでいた加藤さんという人が、私のために作ってくれたのだった。そして、それを私に送ってくれるよう加藤さんから頼まれた土屋さんは、折から林檎畑で剪定の最中だったが、突然、そのコピーに墓の写真を添えて送ろうと思い立ち、仕事を中途でやめておいて、写真を撮りに、車で両津まで行ってきたのだという。コピーには本の題名と著者名、発行所名が書いてあったので、私は更めて、その本を東京で探して読んだ。
 その本の第二章に、創立直後の佐渡中学(佐渡中学は明治三十年に開校、北一輝は同年入学している)で北一輝を教えた教師たちが紹介されていて、北に英国史や進化論を教え、彼の思想形成に大きな影響を及ぼした長谷川清という英語教師が登場するが、この人が、なんと、長谷川潾二郎氏の父君なのである。潾二郎氏の三人の兄弟、兄の海太郎(谷譲次、林不忘、牧逸馬の三つのペンネームを持ち、林不忘の名で『丹下左膳』を書いた)、弟のシュン(ロシヤ文学者、先年物故)、四郎(作家)と並んで、洋画家潾二郎の名前がここへ出てくるのだ。
 長谷川清は明治四年相川の生れで、教師になったときは二十七歳。小学校を出るとすぐ東京に出て中学に入り、東京帝大を卒業間際に中途退学して佐渡へ帰ってきているところを、八田三喜校長に請われて就任するのであるが、校長の八田のほうはこのとき二十五歳、大学を出たばかりの文学士だった。八田はのちに抜擢されて東京府立三中の校長になる。この人の息子が演出家の八田元夫氏である。
 八田三喜が佐渡中学を去ると、同時に、長谷川も教師をやめて東京へ出てしまうが、その長谷川の東京の住居へ、このときはもう佐渡中学を退校して上京していた北一輝が始終出入りしていたようだ、と松本氏は書いている。なお、長谷川が結婚したのもこの前後のことかもしれない。彼は羽茂の儒者葛西周禎の娘由紀を妻に迎えた。このあと、彼はもういちどしばらく佐渡へ帰るが、明治三十五年に「北海新聞」の主筆に迎えられて、以後函館に住むようになり、子供たちはみんなそこで生まれた(長男の海太郎、すなわち後年の牧逸馬だけは佐渡の生れということになっている。初めての児は実家で生む旧い習慣に従って、由紀が出産のため佐渡の生家へ帰ったからだろう。=潾二郎氏夫人の談)。
 明治四十三年の七月から八月にかけて「北海新聞」に載せた「昔ノ女ト今ノ女」と題する論説で、長谷川清は不敬罪に問われ、更に、「北海新聞」を受け継いだ「北海」が再び発行停止の処分を受け、この両事件で、彼は一年近く入獄した。大正八年の一月、こんどは彼が社長だった「函館新聞」の紙上でトロツキーを論評し、再び新聞紙条例違反に問われている。
 昭和九年の函館大火で新聞社が焼失し、彼の新聞人としての長い生活にも終止符が打たれた。長谷川清は東京へ戻ってくる。荻窪に住むようになった長谷川夫妻と、この中学時代の恩師に生涯愛慕の情を抱き続けたらしい北一輝との、親密な往来が復活する。
 以上が松本健一氏の『若き北一輝』に出てくる長谷川清(晩年には淑夫と名を改めていた)のあらましであるが、その本を読んでいる途中から、私はしきりに、潾二郎氏に会いたくなった。長谷川潾二郎と北一輝とのあいだにつながりがあるという、私にとってのこの大発見を憐二郎氏に話したくてしかたがなかったのだ。私は大急ぎで本を読みおえたのだった。
 私にとっては大発見でも、潾二郎氏にとっては発見でも何でもない。あたりまえだ。しかし、私と北一輝の話をしようとは意外だったろう。会うと早速こんな話が出た。
 函館の大火で父君の新聞社が焼けたとき、東京から、支局の人間が揃って手伝いに行くことになったが、潾二郎氏も行くつもりでいると、あなたは行っても役に立たないから残って留守番をしろと言う。そこで、潾二郎氏ひとり残っていると、家の前に大きな、長い、黒塗りの自動車が停って、中から北一輝か降りてきた。大火の報を聞いて見舞いに駈けつけてきたのだ。北は家の中に潾二郎氏がひとりでいるのを見ると、何となく詰るようなふうになった。親父の新聞社が火事で焼けたというのに、息子がこんなところで何をしているのだ、というわけである。潾二郎氏は理由を説明したくもしようがなく、実にばつの悪い思いをした、というのであった。
 長谷川さんの話によると、父君の長谷川清は、若いときには急進的な思想の持主だったが、晩年はどちらかといえば右貧的な思想に傾いていたようで、大川周明とも親しくしていたという。しかし、最も親しかった北一輝とも、思想的に共鳴していたのではないらしい。函館を切り上げて東京に住むようになってからの長谷川夫妻を、北一輝はよく食事に招いたが、あるとき、帰ってきた父君が、壁の方を向いて袴をぬぎながら、北の思想はよくない、というようなことを呟いているのを潾二郎氏は聞いたことがある。二・二六事件も近い頃のことであった。



(P156~) 愛媛新聞のタコぶり

 とはいえ、実際に富山へ行っていろいろな人に会っていると、私は、M氏から聞いた話に、何かと思い当るふしがあった。富山へ行ったのは、九月の十二日から二十八日まで、高岡市の美術館で私のコレクションを並べた「絵のなかの散歩」展という展覧会があって、始まる前日、作品の陳列を手伝いに行ったのだったが、その晩、私は町の料亭に招ばれて、関係者一同と会食をした。そのうち、みんなだんだんお酒がまわってきて、気がつくと、私と卓を距てた向う側の席で、美術館の館長さんと市の教育委員長とが、大伴家持のことで議論をしており、私は、大伴家持が富山にいて、ここで死んだということを初めて知ったのであったが、議論の問題点は勿論そのことではない。問題になっているのは、大伴家持が富山駐在を命じられて来だのは左遷であるかないかという点のようであった。都から富山へよこされたのは何と言っても左遷だよ、と館長さんが言うと、いや、自分はそうは思いたくない、富山が重要地点だから人材を見込まれて派遣されたと考えたい、と教育委
員長は言うのだったが、それを聞いていて、私は、M氏が言った富山県人の富山日本中心説を思い出し、なるほどと思ったのであった。
 駅ビルの階上のホテルに泊まり、翌朝、やはり東京から来た共同通信の門馬さんと二階の食堂で朝飯を食いながら、窓の外を見ると、駅前の広場に立看板のようなものが立っていて、「ひかりを北陸へ」と書いてある。北陸へも新幹線を、という意昧だとは私にもわかるが、それでも、一瞬、ゲーーテが富山へ来てそう言ったような気が私はした。たった一晩で、私も富山人気質に感染したのにちがいない。
 M学説を俟つまでもなく、富山の人間が働き者だということは、富山へ着くとすぐわかった。躰の動きがちがう。今回の「絵のなかの散歩」展は北日本新聞社の主催で、私が富山で最初に会ったのはその新聞社の人たちだったが、その人たちは、地方新聞というものについての私の既成概念とはだいぶ距りがあった。
 私はまず、板倉さんという文化部の若い人に感心した。初め、私は、展覧会の開催前から会期中にかけて数回、連載で作品解説を新聞に書く約束をしていたのだが、いざとなると時間がなくて、到底書けそうもなくなった。そこで、私が口で喋ってそれを誰かに纏めてもらえないかと、生意気千万な言い分とは承知の上で頼むと、その板倉さんが富山から出張してきたのだったが、あいにくその日はまた次々と来客があって時間がとぎれとぎれになり、夕方になってもどれはどのことも話せない。それでも、板倉さんは最終の列車ギリギリまでねばってメモをとり続けたが、もうこれで帰らなければというときになって、私は、話の足りないところはこれを読んでくださいと言って、『絵のなかの散歩』と本になった『気まぐれ美術館』の二冊を渡そうとした。すると、それはもうこちらへ来る前に町の本屋で買って、汽車の中で読みながら来ました、ここに入っています、と言って、板倉さんは肩に掛けたバッグを押えてみせた。そして帰って行ったが、記事が載りだしてみると、スッキリうまく纏まっているうえに、私の本には書いてない、私には書けそうもないことまでいろいろと書いてあって、よく勉強している人だなあと、私は感心してしまったのであった。
 そんなこと当り前じゃないかといわれるかもしれない。ところが当り前ではないのである。「絵のなかの散歩」展はこれまでに三度、酒田と松山と高松で開かれ、その中の一回、松山のときがその土地の新聞社の主催だったのであるが、そこの新聞社から事前に東京へ取材にきた文化部の若い記者は、信じられないような話だが、鉛筆もボールペンもノートも持っていなかった。持っていたかもしれないが、私と会っていた三十分ほどの問には、いちどもとりださなかった。
 しかし、そういうことをいちいちは書かないことにしよう。そうでなくても、私はいつも私の郷里のその町の悪口を言ったり書いたりして、いい加減土地の人たちを怒らせてしまっているのだ。だが、私も怒っているのである。文化部のことでひとつだけ書いておくが、そこでの展覧会が終って、翌日、私が新聞社へ挨拶に行くと、常務や事業局長やその他の人たちが顔を揃えている応接室へ、すこしおくれて文化部長が入ってきて、どういうつもりでそんなことを言ったのかいまだに理解に苦しむが、「洲之内氏が来ているが会うかというので、会ってもいいと言って、来た」と言った。私は、こんなエライ文化部長のいる新聞社とは、今後一切おつきあいはすまいとそのとき思ったのであった。
 あれにはしかし、そこの新聞社の事業部と文化部とがうまく行っていないというようなこともあったのかもしれない。ところで、こんどの北日本新聞では、社長以下全部の人が打って一丸となっている感じが見ていても気持がよかった。また生意気なことを言うが、それが地方新聞のよさではないだろうか。私が行った作品陳列の日は、前回に書いた共同通信大阪支社の内藤さんもきて、先頭に立って働いており、私は、そこに坐って見ていてくださいと言われて、椅子に坐って煙草をのんでいればよかった。


(P166~) 箱根彫刻の森美術館のタコぶり

 アリヨス・イェルチチの来日はこんどが二度目である。私は知らなかったが、去年も来て、大阪と東京で個展を開いているのだ。大阪が先だったのは、久保田さんが長年、そちらのほうのテレビや新聞で、レポーターとして活動してきた人だからだろう。
 昨年の個展は、そのときはまだアリヨス氏と結婚していなかった久保田さんが、ユーゴにいるその恋人への、いねばプレゼントのつもりで計画したのだそうで、やりはじめてみて、展覧会というものは金がかかるのに驚いたそうだが、アリヨス氏のほうには久保田さんをユーゴヘ連れて帰るという目的がその来日にはあり、二人は大阪の個展の会場を式場にして結婚した。アリヨス氏三十一歳、久保田さん四十四歳である。結婚式なんかに金をかけるよりもそれで展覧会を、ということでもあった。
 ところで、久保田さんの話では、その東京展の祈、箱根の、彫刻の森美術館の館長のS氏がお供をつれて会場へ乗り込んできて、アリヨス氏の作品をベタ褒めに褒め、来年、つまり今年の高村光太郎大賞展には招待で出品してもらいたい、招待となれば必ず受賞することになり、賞の等級によって四百万円から百五十万円までの賞金が出る。また、いまのところアリヨス・イェルチチの名前は日本では知られておらず、従って作品をいますぐ美術館に陳列するわけには行かないが、受賞作家として名を知られるようになればこの作品も展示できるようになるからと、そういう約束で、個展の作品のあるものを、展覧会のあと、箱根へ運んだ。
 ユーゴに帰ったアリヨス氏は、一年がかりで、全長七メートルの作品を作った。熔接というのは、私なんかには想像できない凄い仕事らしい。勿論、黒い眼鏡を掛けているが、夜になると、眼玉が真赤になって腫れ上っている。そして、眼玉の表面ではなく裏側が火傷して、早く言えば雪眼の状態になる。ユーゴには綺麗な花の咲くユーゴ独得のお茶があり、これが効くそうで、熱く滝れたそのお茶で、久保田さんが夜通し湿布をすると朝までには充血がとれる。そういう毎日の繰返し。
 費用が二千万円くらいかかった。素寒貧のアリヨス氏にそんな金があるわけがない。日本の有数のコンクールに招待出品になるということはその旨、大使館からも連絡が行って、費用はユーゴの政府が出した。
 全長七メートルの作品をそっくりそのままで日本へ輸送することは不可能なので、部分で運んで現地で組立て、熔接したが、箱根山中の現場は霧が多く、湿気が多いので、高圧電流を使う電気熔接には危険が伴う。そのうえ、今年の六月はよく雨が降った。しかも、作品が大きいので屋内で作業することができず、野外に天幕を張り、その中でやるのだから悪条件が重なるわけで、熔接の専門の知識のある者なら、見ただけで二の足を踏んでしまう。それを、アリヨス氏は1ヵ月近く、合計三万何千回かの熔接をひとりでやった。日限があるので、朝の五時から夜の九時まで、ぶっ通しの作業ということにもなる。日本人の技術者を助手に頼んだこともあったが、三時聞か四時間でダウンしてしまうのだ。
 そうやって「希望の叫び」という七メートルのその大作は完成したが、いざとなると、約束とちがって、作品は招待ではなく、佳作賞ということで七十万円の賞金が出たが、一般参加扱いであった。さりとて、いやなら待って帰れと言われても、そんな大作を待って帰れるわけがない。黙って置いてくるしかないのである。要するに、足許を見て安く買い叩かれたのだ。久保田さんが違約を責めて抗議すると、招待の約束は久保田さんの聞き間違いか、通訳の間違いだったということにしてこの場を収めてくれ、と美術館側は言い、それが久保田さんを怒らせてしまった。
 いうまでもなく、アリヨス氏はもっと怒っている。彼が怒るのは賞金の多寡の問題ではない。金額ということになれば、経費の二千万円に較べて、四百万円も七十万円も、どっちみち足りないという点では同じことだ。初めからそれは承知の上である。彼が問題にするのは名誉の問題で、招待という名誉に対してユーゴ政府は二千万円と、設備その他一切の援助をしてくれたのに、それがそうではないとなると、彼が嘘を吐いたことになる――。と同時に、ここで付け加えておかなければならないが、社会主義国家のユーゴの人間であるアリヨス氏には、芸術作品は半ば作者のものでもあるが、半ば国家のものでもあるという意識のあることだ。
 私が久保田さんから間いた以上のような経緯については、美術館にはまた当然美術館側の言いぶんがあるだろう。そして、こういうことを書くには、そちらの言いぶんも聞いてからにしなければならないのはわかっている。それをしないで書くのは軽率の謗りを免れないだろう。批難は甘んじて受けるが、しかし、それはそれとして、久保田さんたちが事をそう考え、そう見ているということは、この事がユーゴでそう受取られているのだということを、その人たちも忘れないでもらいたい。



(P258~) ヴラマンク
 去年だったか一昨年だったか、もし必要なら、確かめてみればすぐ判ることだが、とにかく、わりあい最近のいつか、竹橋の近代美術館で佐伯祐三の回顧展のあったとき、見終って、階上の常設の部屋へ入って行くと、関根正二の小さな横向きの婦人像が掛っていた。その絵の前に立止って、私は考えこんでしまったのであった。
 何を考えたかを、うまく言えない。そのときそうだったし、いまもそうである。要するに、頭の悪い私には、自分が何を考えているのかがよくわからないのだ。ただ、どういうことからそのことを考えだしたのかは言うことができる。
 つまり、それはこうだった。佐伯祐三展の作品は二百点くらいあったかもしれない。その、初めのぼうの何点かと、最後に近い何点かを除いて、二百点の大部分が、私には佐伯の、ヴラマンクとの格闘のように見えた。何で読んだのかもう忘れたが、佐伯祐三は里見勝蔵に連れられて初めてヴラマンクを訪ねたとき、それまでの自作のうちから自信作を選んで携えて行き、ヴラマンクから「このアカデミズム」と罵倒された。しかし、それが佐伯の芸術開眼になった。外へ出ると、折から降り出した雨の中で(雨なんか降ってなかったかもしれないが、私の記憶の中で、いつのまにか、その情景は雨が降っている)、佐伯は立止って里見の上着の襟を握り、「ありがとう」とひとこと言って涙を流した、というのであるが、それ以来、画家としての佐伯の短い生涯は、ヴラマンクとの死物狂いの戦いに終始したのではなかったかという気が、その回顧展を見ていて私はしたのだった。
 ところが、天才佐伯祐三にしてなお、それだけの苦闘の末にようやく掴んだものを、もうひとりの天才、佐伯よりもずっと早く、ずっと短く生き、二十二歳で死んだ関根正二は、佐伯のような手続きを一切抜きにして、いきなり掴んでいるのだ。ヴラマンクという媒体を要しなかっただけに、こちらはより純度が高いとさえいえるだろう。
 このいきなりのことを、関根の婦人像の前に立って私は考えたのだった。いまも考えている。なぜこんなことができたのか。佐伯が画家として生きたのは昭和の初め。関根が生きたのは大正の初め。どんな天才にも、大正という時代にはできたことが昭和になるともうできない、ということがあるのだろうか。そういう、大正代というものがやはりあるのだろうか。
 ところで、そのいきなりがもう一人いる。村山槐多だ。槐多などという男は、絵を描きはじめてすぐの、中学生のときからもう一流の画家ではないか。なぜこんなことが起こるのか。村山槐多と関根正二とは歳も一つちがいで、同じ大正八年に死んでいる。こうなると、私は、いやでも大正という時代のことを考えずにいられないのであるが、今年の春、鎌倉の近代美術館で開かれた「日本近代洋画の展開」展では、入口の明治洋画の並んだ部屋が鉤の手に曲って、そこから大正期に移るところの両側の壁の、一方には萬鉄五郎と岸田劉生と、更にその先に小出楢重が、一方には関根正二と村山槐多とが並んでいた。
 萬鉄五郎の壁は黒田清輝の壁の続き、関根、村山の壁は藤島武二の壁に続いているのだが、そこまで来たとき、私は突然、ここからが本当の絵だなという気がしたのだった。黒田清輝の「洋燈と二童児」から萬鉄五郎の「木の間より見下した町」に移るところで、はっきりとそれが眼に見えた。あそこで日本に油絵が生まれている。大正期に移るところといま書いたが、大正を意識して見たのではない。いま言ったようなことに気がついて、見ると、そこが明治と大正との境目だったのである。そして、その瞬間、高橋由一は別として、青木繁も、浅井忠も、黒田清輝も、藤尚武二も、私には急に退屈に見えた。

 こんなことを書くと、きっと怒り出す人があると思うけれども、しかし、私はそう感じたのだからしかたがないのである。ヤケクソで、ついでにもうひとつ書いておくと、私はその会場で、岸田劉生の歯ぎしりの音が聞えるような気がした。明治洋画のエリートたち、黒田や藤島たちを尻目に見て、劉生は、西洋というのは洋行帰りのお前さんたちが得意になって見せびらかしているような、そんなものじゃないよ、と言っているのだという気が私はする。そして、本当の西洋はこれだということを、デューラーやファン・アイクに傾倒して見せることで示そうとしたのではなかったか。そのくせ、彼自身はついにいちども西洋へ行こうとせず、白樺イズムの草土社からやがて宋元画のグロテスクヘ、でろりとした美の肉筆浮世絵へと、のめりこむように傾斜して行くが、そうなっていっそう孤立化してしまった劉生の口借しさが、こういうふうに絵が並ぶと、ありありと私の眼に見える。大正ということで考えるなら、ここには、岸田劉生の姿を籍りて現れた、明治に対しての、やはりひとつの大正がある。

 「気まぐれ――」今回と次回は、私は村山槐多のことを書くつもりだが、忘れないうちに、まず、私がいま村山槐多の何に惹かれているかを書いておくことにしよう。でないと、私の悪い癖で、またいつものように、余計なことばかり書いていて、書こうと思った肝腎のことを書かずじまいになる心配がある。私にとって村山槐多の魅力は何か、それを書いておかなければならない。
 今に始まったことではなく、大袈裟にいえば物心ついて以来、槐多は私の最も好きな画家の一人だが、なぜ好きかは、必ずしも自分にわかっていたわけではない。問われても答えられなかった。ただ、何だかしらないが槐多は凄いなと思うのである。どこへ売ったのか思い出せないし、だから、いまどこにあるのかも判らないが、十五、六年前、私は槐多の、丸髪を結い、着物を着た女の上半身の、六号の油絵を持っていたことがある。なかなか売れないので長いあいだ画廊に掛っていたが、画廊に置くにはちょっと始末の悪い絵であった。他の絵と調子が合わないのだ。その一枚だけが眼について他の絵がみんなカスんでしまう。あちらへ掛けてみたりこちらへ掛けてみたり、掛ける位置をいろいろ工夫しながら、この絵の得体の知れないこの強さは何だろうと、絶えず思った。
 だが、その強さが、私がその絵に惹かれるゆえんでもあった。決して巧い絵ではない(と当時の私はそう思った)。油絵の技法の常識からいえば、むしろ稚拙といってもいいくらいだったが、絵というものは、技術的に幼稚であるために却って精神的なものがストレートに出るということがある、ということにもそのとき、その絵で私は気がついた。とはいえ、槐多のその精神的なものとは何かということになると、やっぱりわからない。私はそれを高村光太郎のいう「火だるま槐多」の、その火のように激しい情熱と解釈してみたり、よく人がするように、『槐多の歌へる』 一巻を遺した詩人村山槐多の詩精神をそれに当て嵌めてみたりしたが、いずれにしても、私は、自分の感じる村山槐多を自分の言葉で言うことができず、その都度それぞれに深く教えられるところがあったとはいえ、所詮他人の言葉によって、自分を納得させてきたのだった。
 だからといって、ほかにどうしようもない。しかし、詩人村山槐多多ではなく、画家として、槐多があれほどいつも私を惹きつけ、ときに私を震撼させるのは、勿論、彼の詩魂と別物ではないが、槐多のあの、比類のない対象把握力の強さだということに、ごく最近になって私は思い当った。





(P284~) 小泉清

 こんなことがあった。あるとき、たぶん外房あたりの海の、どこかの断崖を描いたと思われる二十号くらいの油絵を預かって画廊に掛けていたが、偶然画面に手が触れると、一ヵ所、絵具が軟かくてブヨブヨしている。小泉清が死んで五年も経つというのに、まだ絵具が乾かないなんてことがあり得るだろうか。折柄お盆で、小泉清があの世から帰ってきているのではないかと、思わず四辺を見廻したりしたが、それは、チューブからいきなり面面へひねり出したイエローオーカーの、細い棒状の絵具の外側が先に皮のような具合に固まり、内部が空気に触れないために、いつまでも固まらずにいたのだった。
 それにしても、そういう小泉清の色には小泉独得の美しさがある。彼の好んで使ったプルシャンブルーの、あの澄んで淋しい青を、彼以外に私は知らない。あの強烈な赤でさえも不思議に淋しいのだ。色調を整えている隙などないとでも言うように、生の絵具をぶっつけに待って行く彼の色を見ると、私は「色は人生の狂熱である」と言ったゴッホの言葉を思い出す。しかし、小泉清の狂熱は燃え上がり、燃え拡がらない。あの異常なまでの盛上げのために、却って内へ内へと押し龍められて行くかのようだ。一見激情の奔流のように見えながら、彼の画面にはどこかに沈鬱の気配が濃い、孤独と寂寞が影を落している。何が小泉清の裡にはあったのか。
 人はよく小泉清の色に、半分日本人ではなかった彼の体質を言う。父親は小泉八雲、即ちラフカディオ・ハーンで、ギリシャ人とイギリス人の混血のその父親と、日本人の母親との間に生まれた四人兄妹の三男が清である。もっとも、彼はそれを言うのを嫌った。中学では英語の出来がよくなかったという笑い話さえある。にも拘らず、どうしようもなく日本人ではないという面が彼にはあったらしい。
 また「猫」の話に戻るが、いや、「猫」を自分の船室に掛けていた船乗りの閏さんの話に戻るが、昭和十六年に閏さんが神戸の商船学校へ入学したとき、小泉清は神戸まで送って行って、人学式のあと街へ出ると、豪華なレストランを選んで入り、息子には生まれて初めてのご馳走をする。しかし、そのためにその夜の旅館代を使ってしまい、駅の待合室で夜を明かして、帰りの汽車に乗ったということで、そういう、父親としての彼の優しさはよくわかるが、その彼が裸婦を描くとき、娘の蘭子さんをモデルにして、裸の娘の躰にしきりに手で触わりながら描いたというようなことは、やはり普通の日本人とはちょっと違うようである。
 その蘭子さんは進駐軍のアメリカ人と結婚したが、峰村さんの上の娘さんも、これはあちらへ行ってあちらでアメリカ人と結婚し、ニューヨークに住んでいる。いまちょっと日本に帰ってきていて、私は先日、峰村さんの家でその娘さんに会ったが、外人と結婚しているその人には、日本人と外人とのちがいがよくわかるらしい。小泉清と峰村さんとは画家同士というだけでなく、家もすぐ近所で、彼女は少女時代から小泉清をよく知っているのだが、表向き温厚で謙虚そのもののようでいながら、万事につけて妥協のないところが、彼はやはり外人だと彼女は言う。どこがどうと、いちいちは彼女も言えないのだけれども、妥協のなさということは孤独ということでもある。まだほんの子供だった頃の彼女の眼にも、道を歩いて行く長身の小泉清の姿は、いつも、何ともいえず孤独に見えた。
 あの人は矛盾をいっぱい持った人でしたとも彼女は言うのである。これまた、どういうことと具体的には言えないが、長年近くで見ていての彼女の実感なのだ。そういう自分の内部の矛盾にも、おそらく彼は、妥協という解決の方法を知らなかったのではないか。そのために彼がどんなに苦しみ、どれほど疲れ果てていたかは誰にもわからない。小泉清は前に、三度も自殺を図っている。最後に、亡くなった夫人の後を追うようにして、その三月後にガス自殺を遂げたが、直接の動機は、何かにつけて頼りきっていた夫人の死だったとしても、彼をそこへ追い込んだのは、鬱積した多年の苦痛と疲労だったかもしれない。
 死ぬまで、売るための、売れるような絵がどうしても描けなかったというのも、その妥協のなさのさせる業だったろう。猫は好きだったというが、好きな猫を描いてもこの有様だ。とはいえ、小泉清だけでなく、そういう絵かきがいまはいなくなった。猫は昨日の猫ならず。


(P292~) 
佐藤渓
 和雄氏も軍隊に行っている。そして、やはり出雲へ帰ってくるが、和雄氏は初め、父親の作る釣竿を広島へ売りに行ったりしていた。出雲も竹の産地なのである。だが、そのうちに広島だけでは思うように品物が捌けなくなり、埼玉県の川口は釣竿の本場で、いまも日本の釣竿の四十パーセントは川口で生産されるのだそうだが、その川口へ製品を卸しに行き、同時に、釣竿だけでなく材料の竹も扱うようになって、地元の出雲や広島だけでなく、竹の産地をたずねて湯布院へも行くようになった。そして、そこで織りあった女性と結婚し、そこに住みついた、というのが、現在、和雄氏が湯布院で電機商を営むに至った由来である。やがて、父親も出雲を引あげて移ってきて、老竿師は死ぬまでここで釣竿を作った。放浪の途中脳溢血で倒れた兄を、沼津の警察から連絡があって和雄氏が引取りに行き、佐藤渓は、一年ほど生きていて、ここで死んだ。
 まだ竹の商売をしていた頃、和雄氏は、そのときにはもう家を出て、最初は神戸の三宮のガード下(ガード際だったかもしれない)に、次には京橋公園の箱車の中に、のちには川口に間借りして住んでいた兄を、その移る先々へ訪ねて行った。商用の途次に立寄るのである。佐藤渓が島根新聞に絵と文の囲みものの連載をして、その原稿料が出雲の家のほうへ送られてきたのを届けたこともある。川口時代のことだった。放浪に出てしまうと勿論会えない。彼は前後二回、長い放浪の旅をしている。主に北海道の方へ行くようで、洋傘の骨直しをしたり、鋳掛屋をしながら歩き、歩きながら、先に言った段ボールの作品なども描くらしいのだが、探そうにも探しようのないその兄が、突然、湯布院に姿を見せたことが二度あった。放浪中の兄からはめったに便りはないが、年始状だけは必ず来た。
 ところで、その三宮の前だが、一時、佐藤渓が綾部の大本教の本部にいたことがあるのだ。和雄氏はそこへも行っている。なぜ彼がそこにいたのかはわからない。出雲では詩人で通っていた彼の、当時の文学仲間の中に熱心な大本数の信者がいて、その友達が彼を本部に紹介したらしいのだが、和雄氏が行ってみると、彼はそこで別棟の一軒をあてがわれて住み、月刊の大本数の機関誌の表紙を描いていた。
 そのことと関係があるのかどうか、彼の作品の中には、この稿でこれまで触れてきたようなものとは全く別の、一連の、一種異様な雰囲気を漂わせているもの、心霊界かシャーマニズムに属すると思われるものがある。それも、比較的大きな油絵の作品がそうなのだ。ありきたりの幻想絵画などちっとも怖くないが、佐藤渓のこの種の絵は恐ろしい。当節流行のこしらえものの幻想ではなく、正真正銘の白昼夢だからだ。和雄氏の家で遺作を見せてもらったとき、折から雨の降り出した夜の部屋で、そういう作品をまわりに並べて見ているうちに、私は本当に怖くなった。佐藤渓の裡には、何か不可測の世界に対する生得の感受性のようなものがあったのではないだろうか。彼が常人と変っているのは箱車で暮したとか、放浪に日を送ったとか、そういうことではないのだ。
 湯布院から帰って間もなくのある日、私は京橋図書館へ行ったついでに、佐藤渓が箱車に住んでいたという京橋公園へも行ってみた。ここ何回かの「気まぐれ―」をお読みになっている読者は、この頃、私がよく京橋図書館へ本を借りに行くのをご存知のはずである。もっとも、いまの図書館の建物は、佐藤渓の頃のとはちがう。館の人に、佐藤渓がいつも絵を預けていたという番人の老人夫婦のことを訊いてみたが、知っている人はいなかった。




(P335~) 酔いが世界を変容させて抽象化し見せてくれる真実

 去年の暮に、私の画廊で、仙台の奥の方の、北上川に沿った若柳という町で学校の先生をしている菅原敦夫という人が個展をしたが、展覧会の終った晩、烏森の中華料理店ヘ一緒に行き、そこで聞いた菅原さんの“くに”での酒の飲み方というのが、これまた面白かった。何人かで集まって酒を枡で飲むが、皿に盛った塩を指の腹でとって枡の角にのせ、ときどき舌の先でそれを砥めながら酒を飲む。なまじっかな肴などよりも塩のほうが、酒はうまいのだそうである。だが、そうやって三杯飲み、四杯飲みするうちに、枡の縁に盛る塩を盛り損こなってこぼすのがいる。すると、駄目だ、あいつ、酔ったな、ということになる。その話を聞きながら、いかにも爽快な酒の飲み方のような気がして、私もいっぺんやってみたいと思った。キリッとした、一種無色透明な酔いの世界がありそうで、それに憧れるのである。
 勿論、私みたいな下戸にそんな飲み方ができるわけがないが、しかし、飲むというのと酔うというのはまた別で、下戸の有難さは、わずかな酒で酔えるということだろう。負け惜しみのようだが、酒を飲むのは酔うために飲むのだから、一升飲まなければ酔わないのより、一合で酔えれば、時間的にも経済的にも、そのほうが得にきまっている。この頃、私は一日に二回か三回、少量ながらアルコール類を飲むので(なぜそうなるか、理由は面倒臭いから省略するが)、うまく行くと、実に気持よく酔うことがある。私にも酔うということがわかってきたのかもしれない。たいてい朝方、これから寝ようとして、机の前でひとりでウイスキーを飲んでいるようなときだが、突然、私の身のまわりから現実の事物が消え失せ、ひどく抽象的になってしまったその空間の中に、これまたひどく抽象的な、誰とも判らない、しかし、とにかく私の大好きな、小さな人間が一人、そこに、私のすぐ傍にいたりするのだ。その人間に向って私の気持が優しいから、私がその人間を好きだということが私に判る。