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2016年7月31日日曜日

日曜日の意識の流れ

 天気予報では今日の日曜日は雨または曇り、ということだったので、そんなに暑くはならないだろうと思っていた。暑くなければ、庭仕事ができる。残りの地面にも芝を張ろう(というか巻き芝を敷き詰めよう)と思っていたのだけれども、「いつものように天気予報は外れて」今朝は快晴、太陽燦々、朝からムッとするほど暑い。こんな天気、日差し、暑さ、湿気の中では庭仕事は無理。
 ということで、家から出ないで、エアコンをつけて、図書館から借りていて期限が近くなっている本を読んで1日を過ごそうと思う。
 都知事選の選挙結果は、7時(?)過ぎには当確が出されるかもしれないので、そちらも気になる。
 岡田の阿呆。

民進・岡田代表、都知事選直前の退任表明 「責任逃れ」指摘には「ゲスの勘ぐり」
2016/7/30 22:06 JCAST
   民進党の岡田克也代表は2016年7月30日夕方、党本部で記者会見し、9月2日告示、9月15日に投開票される見通しの同党の代表選に出馬せず、任期満了で退任する意向を表明した。東京都知事選の投開票日を前日に控えての、事実上の辞意表明だ。
   7月28日の定例会見では、態度表明の時期を「都知事選をやっている間は、あまり党内がガタガタしない方がいい」などとして都知事選後に明らかにする考えだったが、「選挙期間も終わるという中で、私の考え方を明らかにしておいた方がいいと考えた」と、方針転換した。
「一区切りつけて新しい人になっていただいた方が」

   岡田氏は会見の中で、7月10日の参院選について

「どん底の状態から反転攻勢できる一歩を踏み出すことができた」
として、

「ここで一区切りつけて新しい人になっていただいた方が、党にとっても、政権交代可能な政治をつくるという意味でも、望ましいのではないか」
などと不出馬の理由を説明した。岡田氏は、

「都知事選と、私の今後の代表選挙の話は無関係」
と説明する一方で、都知事選については

「最後まで戦っていく」
と強調した。鳥越俊太郎氏(76)を野党統一候補として擁立した今回の都知事選では、「党が前面に出るべきではない」というのが岡田氏の持論だ。こういった点を踏まえても岡田氏は都知事選には距離を置き続けていた。

   岡田氏が初めて鳥越氏と並ぶ形で応援演説に臨んだのは7月27日。7月14日の告示から2週間近く経っていた。この点について7月28日の定例会見で質されると、岡田氏は

「あえて一度も一緒にやることがないというのも、不自然だと思う。そういうことで別に私が望んだわけではないが、まぁ、周りでセットしていただいて、ああいうことになった」
と率直に話し、報道陣を驚かせた。

「古賀案」ひっくり返して鳥越氏擁立に動いた責任は

   都知事選をめぐっては、元々民進党都連が元経済産業省官僚の古賀茂明氏(60)の擁立を決めていたが、岡田氏が主導する形で党本部が鳥越氏の擁立を進め、事実上都連の意向を「ひっくり返す」形になっていた。その揚げ句の「負け戦」となれば岡田氏の責任が問われるのは確実で、記者からは

「責任を取らない形で、今(不出馬を)表明したのではないかと勘繰ってしまう」
との指摘も出たが、岡田氏は

「それをゲスの勘繰りって言うんじゃないですか」
と反発。鳥越氏が他候補と「競い合っている」として「私の判断は間違っていなかったと思う」とした。その上で、

「基本的に代表が知事選挙の責任をとるというのは、私は違うと思っている。代表が責任をもつのは、参議院選挙と衆議院選挙だというのは、常に私が申し上げているところ」
だと主張した。

   岡田氏は会見後、東京・新宿駅前で鳥越氏の応援演説に臨んだが、自らの進退に関係する発言はなかった。ただ、「レームダック党首」の応援がどの程度の意味があるかについては、さまざまな見方ができそうだ。
(引用終わり)

▲:当然のことを批判されると、火病発作を起こして「下衆の勘ぐりだ」と喚いて逆に攻撃してくる。引き際の醜さ。まるでイオンのプライベートブランド食品の不味さと同じように低品質の男である。余生は家で何千ものカエルの置物を眺めて暮らすといい。
 何か批判されると「差別だ」と喚いていたボケ老人の鳥越俊太郎が閑居を訪れてくれるかもしれない、暇になっているだろうから。


 昨日の夜、空腹になったので蕎麦屋に行く。といっても、真夜中過ぎ。
 南郷18丁目にある蕎麦屋「信州庵」が、金曜土曜の夜は午前1時まで営業しているのを知っていたから。店内には数人の客がいて、私がいつもの「角煮玉子弁当付き蕎麦」を食べていたら、2人組の中年女性が入ってきて、近くの席に座った。

作成途中

2016年7月30日土曜日

美術展 フランスの風景・樹をめぐる物語


資料 町立松前病院


▲:去年、この病院を「見学」してきたけれども(勝手に)、建物が老朽化していることと、外来施設部分に飾られている絵があまり好印象を与えるものではなかったこと以外は、記憶に残っていない。


中村紘子死去


上は、性奴隷新聞に載った人間のクズ@日高晤郎に関する記事。

 稲作地帯である空知地方の某町で、立派な町民文化センターが落成した。その中の演奏会ホールの杮落としに招かれたのが、中村紘子だった。
 田舎町の住民も、普段はクラシック音楽なんか耳にしない住民も、中村紘子なら知っていた。だって、カレーのルーの宣伝で毎日毎日テレビに登場しているあの中村紘子、である。
 時々作るハウスカレーと同じように、あのテレビCMと同じように、親しみやすいピアニスト、を期待して集まった町民たちは、しかし、おおいに失望させられることになる。
 聴衆の中には農家の主婦が多かった。小さな子供を育てている。「町の公民館の演奏会」ということで、子供を連れてくることは禁止されてはいない。いや、子供にも、あの有名な中村紘子さんのピアノの音色を聴かせることが素晴らしい情操教育になると思ったのだろう、当日は子供も少なくなかった。
 しかし、もちろん、行儀のあまりよくない子供も、いる。
 演奏の途中に「ちょっと声を上げる」ような子供も、いたらしい。
 すると、ステージでピアノを弾いている、素晴らしいドレスに身を包んだ美しい中村紘子はどう反応したか?
 ・・・・鬼の形相になって、客席を睨みつけた、のだという。
 それも、一度や二度ではなく、何度も何度も。だって、普段はコンサートホールでピアノを聴くなんていうことに慣れてはいない子供だもの、そりゃー、退屈になって「ママ―」だの「おしっこ!」だのと声を上げることもあるだろう。
 その度に、中村紘子が鬼の形相、魔女の形相、ガーゴイルの形相になって、田舎人たちを睨み付ける。
 町民たちは、「あぁ、あの有名な中村紘子さんを怒らせてしまって申し訳ない」という思いで、身を縮め、緊張から固まった状態で、演奏会が一刻も早く終わるのを心の中で祈っていたらしい。
 
 この話を親戚の人から聞かされたとき、私は思った。
「いかにも、中村紘子らしい」と。


作成途中

中村紘子の暗く黒いバックグラウンド
http://tokumei10.blogspot.jp/2016/07/blog-post_348.html



資料 都議会自民党サル軍団・内田茂




http://shukan.bunshun.jp/articles/-/6414
“都議会のドン”が役員の会社 五輪施設を逆転受注
2016.07.27 16:02
“都議会のドン”といわれる内田茂自民党東京都連幹事長(77)が役員を務める会社が、複数の東京オリンピックの施設工事を受注していたことがわかった。

 内田氏は、落選中だった2010年から地元・千代田区に本社を置く東光電気工事の監査役に就任。内田氏の所得等報告書、関連会社等報告書を総合すると毎年数百万円の役員報酬を受けているとみられる。


 東光電気工事は、大手建設会社とジョイントベンチャー(JV)を組み、今年1月、バレーボール会場の「有明アリーナ」(落札額360億2880万円)、水泳の「オリンピックアクアティクスセンター」(469億8000万円)の施設工事を落札。東京オリンピックに向けては3つの恒久施設が新築されるが、このうち2件を東光電気工事のJVが受注したことになる。


 特に、有明アリーナの競争入札では、東光電気工事のJVの入札価格がライバルのJVより高く、価格点で下回ったが、施工計画などの技術点で上回り、落札に成功した。専門紙の建設通信新聞も<逆転落札>(1月18日付)と報じたほどの逆転劇だった。



国家並みの予算規模を誇る東京都

 東光電気工事は、五輪施設だけではなく、豊洲新市場の関連工事など、都発注の工事もたびたび受注。売上高は、内田氏が復活当選する2013年までは700億円前後だったが、2014年には約1000億円へと急成長している。

 日本大学の岩井奉信教授はこう指摘する。


「内田氏は都の予算に大きな影響力を持つ人物。条例等で禁止されていないとはいえ、五輪関連工事を受注するような企業の監査役を務めていること自体、望ましい話ではありません」


「週刊文春」の取材に、東光電気工事は「個別の営業について相談したことはございません。従って、ご質問の事業についても内田茂氏が関係した事実は全くございません。なお、役員の個別の報酬額は公表しておりません」、内田事務所も「口利きのような事実はありません」と回答した。


 東京オリンピック施設を巡っては、整備費の高騰が問題となっており、新知事と都議会の対応が注目される。


「週刊文春」7月28日発売号では、都知事選のキーマンでもある内田氏の人物像を詳報している。



▲:都議会での自民党議員によるセクハラ野次事件のときに、都議会というものがどこかの山奥の村議会並みのサルたちの楽園になっていることを見せつけられ驚いた。首都東京である。首都東京がどうしてこんな田舎の粗暴なサルたちに支配されているのか、理解できなかった。しかし、猪瀬直樹と小池百合子の「活躍」によって、内田茂が炙り出され、やっとサル軍団の仕組みが理解できるようになった。
 サル軍団に御奉仕する意欲まんまんの岩手の貧乏神や、「処女は病気・強制全裸」のボケ爺が都知事になろうとも、どちらにしても、サル軍団の前途は既にして暗いものになっている。もちろん、小池百合子が知事になったならば、「都議会大掃除作戦」を期待することができる。来年議会は解散する。内田茂のところに強力な「刺客」が送り込まれることを願うばかりである。






鳥越俊太郎はフェミニストであると狂乱する女たち

http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51634369.htmlより一部改変して引用

ツィッターはバカ発見機といわれているけれども、今度の都知事選は一挙に数多くのバカ(女)の姿を国民に見せてくれた。








日本人へのヘイトハラスメント

http://tokumei10.blogspot.jp/2016/07/crac.html より引用

ヘイトハラスメント裁判を支える会 呼びかけ人 2015年11月12日時点、50音順、敬称略

青木 陽子(あおきようこ、C.R.A.C.NORTH)
明石 一朗(あかしいちろう、関西外国語大学教授)
伊賀 カズミ(いがかずみ、日本国民救援会中央本部副会長)
石子 雅章(いしこまさあき、部落解放大阪府民共闘会議議長)
伊地知 紀子(いじちのりこ、大阪市立大学教員)
石野 雅之(いしのまさゆき、差別反対東京アクション代表)(引用者注・全国大学生協幹部・しばき隊幹部
伊藤 健一郎(いとうけんいちろう、C.R.A.C.KANSAI)
指宿 昭一(いぶすきしょういち、弁護士)
井上 耕史(いのうえこうじ、弁護士)
鵜飼 良昭(うがいよしあき、日本労働弁護団全国常任幹事)
大杉 光子(おおすぎみつこ、弁護士)
奥田 均(おくだひとし、近畿大学人権問題研究所)
奥野 恒久(おくのつねひさ、龍谷大学政策学部)
音谷 健郎(おとだにたつお、市民)
小野 順子(おのじゅんこ、弁護士)
小野寺 義象(おのでら よしあき、弁護士)
郭 辰雄(カクチヌン、コリア NGO センター代表理事)
鎌田 幸夫(かまたゆきお、弁護士)
川崎 真陽(かわさきまひる、弁護士)
川西 玲子(かわにしれいこ)
河村 洋(かわむらひろし、弁護士)
北口 末廣(きたぐちすえひろ、部落解放同盟大阪府連合会執行委員長)
金 尚均(キムサンギュン、龍谷大学法科大学院教授)
金 星姫(キムソンヒ、弁護士)
金 哲年(キムチョルニョン、郵便局同胞共の会)
金 満里(キムマンリ、劇団態変主宰)
金 明秀(キムミョンス、関西学院大学教授)
木村 夏美(きむらなつみ、弁護士)
小山 帥人(こやま おさひと、ジャーナリスト)
在間 秀和(ざいまひでかず、弁護士)
佐々木 亮(ささきりょう、ブラック企業被害対策弁護団代表、弁護士)
笹 泰子(ささやすこ、弁護士)
サンドラ・ヘフェリン(作家)
山内 一浩(さんないかずひろ、弁護士)
清水 直子(しみずなおこ、プレカリアートユニオン執行委員長)
白石 孝(しらいいしたかし、プライバシー・アクション代表)
城塚 健之(しろづかけんすけ、弁護士)
辛 淑玉(シンスゴ、のりこえネット共同代表)
申 惠?(シンヘボン、青山学院大学教授)
菅 充行(すがみつゆき、弁護士)
杉本 朗(すぎもとあきら、弁護士)
関根 良平(せきねりょうへい、弁護士)
宋 貞智(ソンチョンヂ、NPO 法人多民族共生人権教育センター事務局長)
高木 太郎(たかぎたろう、日本労働弁護団常任幹事、弁護士)
田島 義久(たじまよしひさ、弁護士)
玉木 一成(たまきかずなり、過労死弁護団全国連絡会議事務局長、弁護士)
崔 信義(チェシニ、弁護士)
徳住 堅治(とくずみけんじ、日本労働弁護団会長、弁護士)
豊川 義明(とよかわよしあき、労働弁護団副会長)
中川 敬(なかがわけい、ミュージシャン、ソウル・フラワー・ユニオン)
中沢 けい(なかざわけい、小説家)
長瀬 信明(ながせのぶあき、弁護士)
中西 基(なかにしかなめ、弁護士)
中村 一成(なかむらいるそん、ジャーナリスト)
中村 和雄(なかむらかずお、弁護士)
中村 千恵子(なかむらちえこ)
中村 伸郎(なかむらのぶお)
棗 一郎(なつめいちろう、日本労働弁護団幹事長、弁護士)
南部 秀一郎(なんぶしゅういちろう、弁護士)
西 晃(にしあきら、弁護士)
西田 雅年(にしだまさとし、弁護士)
西村 秀樹(にしむら ひでき、近畿大学人権問題研究所客員教授、日本ペンクラブ理事)
丹羽 雅雄(にわまさお、弁護士)
野間 易道(のまやすみち、C.R.A.C.)
朴 洋幸(パクヤンヘン、NPO 法人多民族共生人権教育センター理事長)
端野 真(はしのまこと、弁護士)
服部 弘昭(はっとりひろあき、九州労働弁護団代表、弁護士)
邊 玲奈(ピョンリョンナ、KARS Kansai Anti-Racism Student' front)
深沢 潮(ふかざわうしお、小説家)
星野 圭(ほしのけい、弁護士)
前田 朗(まえだあきら、東京造形大学教授)
増田 尚(ますだたかし、弁護士)
村井 茂(むらいしげる、一般財団法人大阪府人権協会代表理事)
村田 浩治(むらたこうじ、非正規労働者の権利実現全国会議事務局長、弁護士)
文 京洙(ムンギョンス、立命館大学国際関係学部教員)
森 実(もりみのる、大阪教育大学教授)
師岡 康子(もろおかやすこ、弁護士、外国人人権法連絡会)
諸富 健(もろとみけん、弁護士)
野洲 潤一郎(やすじゅんいちろう、C.R.A.C.Paris)
安田 浩一(やすだこういち、ジャーナリスト)
安原 邦博(やすはらくにひろ、弁護士)
山根 健二(やまねけんじ、部落解放大阪府民共闘会議事務局次長)
養父 知美(ようふともみ、弁護士)
吉川 健司(よしかわけんじ、弁護士)
李 信恵(リシネ、フリーライター)
若宮 啓文(わかみやよしぶみ、日本国際交流センター シニア・フェロー) (引用者註・中国で客死)

www.taminzoku.com/wordpress/wp.../3ef5e56f8cc52e3cb48ed14e1f782e391.pdf

2016年7月28日木曜日

石原慎太郎 内田茂 バカテル

http://blogos.com/article/180977/
都知事選のウラ側「舛添と石原とを結ぶ『公私混同疑惑』」

迷走する「ポスト舛添」のゆくえ
「今、東京都知事選に出馬の意欲を見せているのは、石原伸晃経済再生担当相です。政治とカネのスキャンダルで辞任に追い込まれた猪瀬直樹前都知事や舛添要一前都知事の都知事就任の発端は、父である石原慎太郎元都知事の任期途中での都知事辞職でした。きっかけが慎太郎氏にあるので、伸晃氏は『石原家が騒動を治めなくては』と周囲に漏らしているようです」と語るのは自民党都連幹部だ。

“ポスト舛添”をめぐり、櫻井翔のパパこと桜井俊総務省前事務次官、小池百合子元環境相、橋下徹前大阪市長、宇都宮健児日弁連会長、長島昭久元防衛副大臣らの名前が、連日取り沙汰されているが、現役閣僚で都連会長も務める伸晃氏が自分の名前が“ポスト舛添”でなかなか出てこない現状を打破しようと存在感のアピールに努めているのだろうか。

6月21日、舛添氏は“政治資金の公私混同疑惑”が追求されて辞任した。2014年の都知事選の際に、舛添氏は、待機児童の解消など社会保障政策をうたっていたものの、今年4月までの1年間で、保育所や介護施設の視察はゼロ。一方、都内の美術館や博物館への視察が39回にものぼることが発覚した。さらに、政治資金を使い、美術品や絵画を購入していたこともわかり、批判された。

趣味の美術への投資の多さがわかるが、ある都議会議員は「石原都知事時代の方がひどかった」と振り返る。

「石原都知事は、2001年に若手芸術家の支援をする『トーキョーワンダーサイト(TWS)』という事業を始め、無名の芸術家であった四男の延啓(のぶひろ)氏を外部役員として抜擢しました。当時、なぜ、延啓氏を抜擢したのかと問われ、慎太郎氏は『余人をもって代えがたい』と釈明しました。無名の芸術家が『余人をもって代えがたい』とは到底思えません。舛添氏の美術館視察とは桁違いの『公私混同疑惑』です。しかし、作家である慎太郎氏への配慮からか、当時、週刊誌や産経新聞はことごとくこの問題を黙殺してしまいました。この美術事業には、年間5億円に近い税金をつぎ込まれました」

頼れるのは石原の血統だけ!?
このTWSは、慎太郎氏の“肝いり”事業だったのは間違いない。TWSの予算は初年度、約5600万円だったが、4年後には4億7000万円にまで激増。東京都美術館など、都が運営する他の文化事業は軒並み補助金をカットしていたが、息子の事業には糸目をつけず、税金を注ぎ込んでいたのだ。 この疑惑は、共産党などが議会で追求し、猪瀬都知事時代に予算は減額されていった。

自身の後継者であったはずの猪瀬直樹氏に対して、当時、慎太郎氏は「延啓は才能があるんだ。なのに、猪瀬は予算を削ってしまった」と、よく周囲にぼやいていたという。

「伸晃氏が都知事になることで、慎太郎氏や延啓氏が一番喜ぶのかもしれません」(自民党関係者)

父・慎太郎氏に比べ、存在感、発信力ともに劣る伸晃氏だが、頼れるのは血統だけ。石原家の動向に注目が集まる。


http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51634190.html
「大年増の厚化粧が...」 石原慎太郎氏の小池氏罵倒、「逆効果」の気配【都知事選2016】

2016/7/27 18:09JCAST
  東京都知事選(2016年7月31日投開票)をめぐり、「石原親子」が元防衛相の小池百合子氏(64)への攻撃を強めている。東京都の石原慎太郎元知事(83)は小池氏を「大年増の厚化粧」と罵倒し、長男で自民党東京都連会長の石原伸晃経済再生担当相(59)は「小池候補は自民党の人間ではない!」と声を張り上げた。


   この発言は、都連が推薦する元総務相の増田寛也氏(64)の決起集会の中で出た。小池陣営の反応は激しく、応援に立った若狭勝衆院議員(59)が「非常に僕は今、悲しい」と選挙カーの上で涙を流し、小池氏は「我々はそういうの慣れてる」と応じた。年配の女性からの反発もあり、石原親子の発言が逆に小池陣営に有利に働く形になっている。
「行政手腕を発揮した増田さんに任せないと」

   7月26日午後に自民党本部で開かれた増田氏の決起集会では、伸晃氏が

「(小池氏が自分で)推薦届(推薦願)をお取り下げになられた。私はそのときをもって、また今日をもって、小池候補は自民党の人間ではない!私はこのように思っております」
と声を張り上げたかと思えば、慎太郎氏は

「大年増の厚化粧がいるんだな、これが。これはね。困ったもんでね...」
などと小池氏を批判。

「そこに私の息子もいて苦労してるけど、都連の会合に1回も出てこずにね、『都連はブラックボックスだ』なんて聞いたようなこと言っちゃいけないんだよ」
「とにかく岩手県で行政手腕を発揮した増田さんに任せないとね、やっぱり厚化粧の女に任せるわけにはいかないね、これは」
などと小池氏をけなしながら、増田氏への支援を呼びかけると、会場からは大きな笑い声が起こっていた。
小池氏「我々はそういうの慣れてるんです」

   小池陣営の反応は素早かった。発言から数時間後の7月26日夜にJR十条駅前で行った街頭演説で、自民党の若狭勝衆院議員は選挙カーの上で

「非常に僕は今、悲しい」
と言ったきり、20秒以上絶句。

「日本社会を考える上において、そういう言葉が簡単に言われてしまって簡単に許されるということだと、ぼくは本当に日本社会って暗いなって思う。女性が輝くなんてあったもんじゃない。僕は許せない」
などと涙を流しながら言葉を絞り出した。これを受ける形で小池氏は

「先ほど、若狭さんが男泣き。申し訳ないです、男泣かせちゃったんだから。本当に申し訳ない。というかね、我々はそういうの慣れてるんですよ、逆に。しょちゅうなんですよ、むちゃくちゃひどいこと言われるの」
「女は聞き分けがいい、使い勝手がいいなどということは絶対に思わせない」
と、むしろ「慎太郎発言」を利用して聴衆を沸かせていた。

   こうした慎太郎氏の発言について、ネット上では、

「今この人が発言すると逆に小池さんにとって援護射撃になっていると見て良いんじゃないか?」
「人格を疑われるような悪口ばかりで、嫌気がした」

などと、女性に対する侮辱的な発言だという反発が目立っている。



http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/186422/4
小池百合子氏「私は自民ではなく都連の一部と戦っている」

 2016年7月27日 日刊ゲンダイ
 終盤に入った東京都知事選(31日投開票)は小池百合子元防衛相(64)の優勢が伝えられるが、どうもスッキリしないのが自民党との関係だ。告示前に出した進退伺は宙に浮き、党籍は残ったまま。一方、遊説では連日、自民党東京都連を批判している。当選したら、都議会与党の自公とどう向き合っていくつもりなのか。

――序盤からのリードを守っています。「都議会の冒頭解散」を公約に掲げましたが、都議会の自公とは全面対決ですか?

〈不信任を突き付けられた場合は冒頭解散する〉ということを申し上げたんです。逆に言えば、不信任決議案を提出されなければ、信任されたということになる。

――都連とは?


 都連との関係はなかなか厳しいですね。ただ、都連内部にはサイレントマジョリティーが存在する。〈小池がやってくれるんじゃないか〉という声も聞こえてきています。選挙期間中に表に出ることはできないですけれどね。

――小池都知事が誕生したら、都連は変わると。

 変わらざるを得ないと思います。都連が担いだ知事は、猪瀬(直樹)さん、舛添(要一)さんと2代続けて「政治とカネ」の問題で辞任した。企業であれば、誰かが責任を取るでしょう。

■来夏の都議選では党派を問わず改革派支援

――都知事選と同日に行われる都議補選に元秘書を擁立した。都連との対立はますます深まりませんか。


 4選挙区すべてに候補を立てれば完全に敵対だと思いますけれど、それはやっていません。信頼できる人が都議会に必要ですし、そこは彼(元秘書)とも一致した。都政の改革は急がば回れ。改革を目指す多数派をつくっていくのは、王道だと思っています。有能な新人であれば、どこの所属だろうと応援したいし、来年夏の都議選では改革志向の候補を支援します。党派を問わずにね。

――「小池新党」の結成も視野に?

 これまで政党ばかりつくらされてきましたね。もっとも、勝たないと次のコマには進めません。今はそこまでは考えていませんけれど、改革派の流れはつくりたい。

――都連の“お触れ”が話題になりました。親族を含め、小池陣営を支援してはダメだと。国会の同僚議員のサポートはどうですか? 若狭勝衆院議員は熱心に応援していますね。


 エールの電話はいっぱい入っています。頑張れ、頑張れと応援いただいている。OBの方からは貫け、とかね。ただし、東京以外の人です。国会、地方を問わず、東京の自民党議員の公認権は都連が握っている。誰が決めているのかは明白です。行動には自分の命がかかる。それがありながらも貫く若狭さんは信念の人。ブレるのを恥だと思っている。絶滅危惧種と呼んでいるほどです。(増田候補を推すとされる)特別区長会や町村会も選挙戦に入ったら割れてきている。面白いですよ。

――告示前に谷垣幹事長を訪ね、自民党本部に進退伺を出した。党本部との関係はどうですか。

 返事はいただいておりませんが、私は自民党と戦っているわけじゃなく、都連の一部と戦っているんです。ひょっとしたら、(相手は)ひとりです。官邸でも、上の人はこの事態をよくお分かりだと思います。沖縄県知事になるわけではありません。都と国が敵対することは自民党にとっても、国にとってもプラスではない。まして、東京は首都です。そのあたりは“大人の対応”ということになろうかと思います。

――それにしても、なぜ今回なのでしょう。石原慎太郎元都知事に前回選挙での出馬を打診されたことがあったとか。

 石原さんに「虚言癖の厚化粧」と言われて、本当に驚いていますが、石原さんから話があったのは事実です。それで、〈都知事になったら何をしたらいいんですか〉と尋ねたら、四男さんの(関係していた都の)事業か何かを猪瀬さんが止めたとかで、イの一番に出てきたのが〈それを復活させてほしい〉でした。ビックリしました。本当にいいお父さんですよね。私には2020年開催の東京五輪の先を見据えた設計図がある。都民のみなさんのため、日本全体のためにもなるという自信もある。不安だったら出ませんよ。


(聞き手=本紙・坂本千晶)

▲:東京があれほど腐敗しているそもそもの原因が、石原慎太郎とそのバカ息子、そして内田茂というクズたちにあったということを知らしめてくれた今回の都知事選ではあった。





2016年7月27日水曜日

バカ息子(石原バカ晃)のために老醜をさらす石原慎太郎



▲:映像はテレ朝のニュースで見たけれども、石原慎太郎はやっと立っているという印象だった。身体も、そしてもちろん昔から頭も弱っていたのだろう。そんなにこの世に生きている期間が今後長いとも思われない。その老体を鞭打って、バカ息子のために「老芸」を見せている。もっとも、内田茂を筆頭とする自民党都議会サル軍団を育てのは石原慎太郎で、自民党サル軍団と「協調して都政腐敗」を招いたのだから、サル軍団の実情を世間に知られるのが怖いのだろう。週に1日か2日、2時間か3時間しか都庁に来ることもなく、ペットボトルに入れた「ディーゼル粉」を振って怒鳴り散らすことしかしなかったこの阿呆(石原慎太郎)は、こうしてバカ息子のため、そして自分のために、最後まで醜態をさらしているということなのである。


石原慎太郎氏大暴れ、小池氏に「ウソつき厚化粧女」
日刊スポーツ 7月26日(火)20時44分配信
 増田陣営は自民党本部で各種団体総決起大会を開き、石原慎太郎元都知事(83)が登壇した。石原氏は鳥越氏について「売国奴だよ、こいつは」と“こいつ”呼ばわり。鳥越氏が尖閣諸島で中国と衝突し、人命が失われる事態になるようなら「尖閣なんて中国にくれたらいい」と発言しているとし「こんなバカなことを言うヤツに東京を代表できるか」と切り捨てた。
 小池氏には「私はあの人はウソつきだと思いますよ。私があの人に選挙に出たらいいなんて言ったという。そんなこと毛頭ありませんから。厚化粧の女に任せるわけにはいかないよ」と言いたい放題だった。都連会長で、慎太郎氏の長男、石原伸晃経済再生担当相も同大会で、小池氏の立候補について「自民党の人間ではない」と批判した。
 石原氏が、小池氏を揶揄(やゆ)するような発言をしたことに対し、小池氏を除名覚悟で応援する自民党の若狭勝衆院議員は26日、都内の街頭演説で悔し涙を流した。「政策ではないことで、ああいうことを言われるのは悲しい」と述べ、しばし絶句。小池氏は、「若狭さんが男泣きしてくれた。男を泣かせてしまい申し訳ない」と述べ、「これまでにもひどいことをたくさん言われてきた。もう慣れている。ただ、日本はこれからもおっさんの論理で突き進むのか」と反論。聴衆に「見返してやりましょう」と呼び掛けた。


2016.7.26 18:47 産経新聞
【東京都知事選】
石原伸晃都連会長が小池百合子氏に絶縁宣言「今日をもって自民党の人間じゃない」
 自民党東京都連会長の石原伸晃経済再生担当相は26日、党本部で開いた都連会合で、都知事選(31日投開票)に立候補している小池百合子元防衛相(64)について「今日をもって小池氏は自民党の人間ではない。私はこのように思っている」と述べた。
 小池氏は都連執行部に無断で都知事選への出馬を表明し、都連に推薦願を提出したが、後に推薦願を取り下げた。石原氏は「私のいないときに推薦依頼を持ってきて、その後、また私がいないときに推薦依頼を引き取っていかれた。わがままだ」と批判した。
 都知事選には小池氏のほか、増田寛也元総務相(64)=自民、公明、日こ推薦、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏(76)=民進、共産、社民、生活推薦=ら過去最多の21人が立候補している。

2016年7月26日火曜日

病院関連 夏期休暇

 事務に行って、夏期休暇(特別休暇)を申請してきた。北アルプス登山である。
 カフェテリアプランを全て申し込んだ。
 昼は職員食堂で食事をした。

2016年7月24日日曜日

顔が死んでいる鳥越俊太郎 山口二郎 上田文雄 上田絵理

 コンドームでにっこり・バックはコワモテ川村龍夫でお馴染みの夏目三久の番組から。




 鳥越俊太郎の顔、老人ホームで見かける疲れ切った老人そのものである。こんな「病み上がりの疲れ切った男」を担ぎだして、都知事という「重責を担わせよう」とする連中は、もうほとんど「老人虐待」をしているようなものである。

 アフラックから湯水のように(?)金を貰い、64歳の時にはすでに富士山麓に別荘を持ち、そこに早稲田(?)の女子学生を連れ込んであんなことをしようとし、上智大学でも何か大きな問題を起こし(?)、どこかのマンションに住む女性問題がこれから爆発するかもしれないという、そんなことで顔つきはすっかり死んでいるのだろう。
 さっき見たテレビニュース番組では、カマキリと鳥越が映っていた。都知事選でもカマキリ(御存知、日本のエスタブリッシュメント・三井財閥の手先・お仲間がロシア女紹介で有名な佐藤優)が応援している(糸を引いている)のだろう。
 北海道民の私としては、鳥越や法政大学のカマキリ・山口二郎らが画策した衆議院議員候補を落としたので、東京都民も同じようにこのクズ連中の運動にノーを突き付けてほしいものだと思っている。
PS 当選したとしても落選したとしても、鳥越の妻や娘たちは今後ある意味「針の筵」に座らされたような生活をしなくてはならないのかもしれない。処女は病気と言って若い女性に迫る・・・これで念書が週刊誌に出たなら「事実無根」はお笑い草となるのだろうけれども。
 叩けば埃が出る、という言葉はこの男のためにあったのだということを知らされた都知事選だった。それにしても「埃出杉」。


PS2 北海道の民進党の幹部と内縁関係(恋人関係?)にあることを認めていた池田まき(中卒で北大大学院修了という不可思議な経歴を誰に問題にもしていなかったが)。この女性の応援に顔を出していたのが、鳥越俊太郎やカマキリ二郎といったいつもの連中。
 長尾詩子という弁護士は、自由法曹団という共産党系人脈。上田文雄はコリアンマンセーだけの弁護士で元札幌弁護士会副会長。札幌弁護士会は、横領覚醒剤少女買春などといった多数の犯罪弁護士を抱える日本でもトップクラスの腐敗弁護士会。そこに所属しているのが、上田文雄の娘で弁護士の上田絵理。いつか父親の後を継いで、コリアンマンセーの政治家になるのかもしれない。





内田茂・森喜朗と小池百合子のfinal fantasyが見たい(ライトさんは小池百合子)

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160719-00068385-playboyz-pol
お咎めなし。安倍首相が「百合子の乱」を静観しているワケ
週プレNEWS 7月19日(火)6時0分配信

 お咎めなし。安倍首相が「百合子の乱」を静観しているワケ

都知事選における自民党の「分裂選挙」の引き金になった、小池百合子による“強行”立候補だが、これに対して安倍首相は依然として静観の構えだ。それはなぜか?


安倍官邸周辺の声を探っていると、小池と安倍首相に“ある利害の一致”が見えてきた。それは「東京五輪にまつわる利権を一手に差配するとされる森喜朗元首相を排除したいとの願望」だ。


ある自民党議員がこう証言する。


「もともと、森元首相は小池氏を毛嫌いしていました。保守党から自民党にくら替えして清和会入りした小池氏に対し、『お座敷がかかれば、ホイホイと出かける芸者』『がりがりの出世亡者。あんな女、俺が政治生命を断ってやる』などと、よく悪口を言っていました」


だが、相手は首相経験者。新参者の小池氏はじっと耐え忍ぶしかなかったという。自民議員が続ける。


「小池さんにとって、森元首相は天敵。ただ、やられっ放しでは気が済まない。チャンスがあれば、反撃しようと虎視眈々と狙ってきた。実は官邸もひそかに『森降ろし』を願っており、その一点で両者は利害が一致している。小池氏を党除名などの厳罰にせずに、官邸が静観しているのはそのためです」


官邸が「森降ろし」に動くのは、JOC(日本オリンピック委員会)などが2億2000万円の裏金をコンサル会社に支払い、東京五輪開催を「黒いカネ」で買ったとの疑惑を火消ししたいためだ。


ここにおいて、小池と安倍首相の思惑は一致する。すでに、水面下では逆に小池氏をサポートする動きまであるという。しかも公示直後の世論調査で、小池が自民党公認の増田寛也候補を支持率で上回ったことから、さらにこうした動きは加速する可能性が高い。


発売中の『週刊プレイボーイ』31号では、官邸周辺を徹底取材。一枚岩とはいえない自民党の都知事選対応の実態について紹介しているので、ぜひご覧いただきたい。


(取材・文/本誌ニュース班)


■週刊プレイボーイ31号(7月16日発売)「安倍首相が小池百合子の暴走を止めない理由」より




▲:増田がなれば、内田茂の犬として腐敗に染まりオリンピックの頃には「腐臭爆発」で都政混乱
  鳥越がなれば、アフラック癒着とか上智大学某重大事件とか64歳で別荘に女子大生を連れ込んで淫行に及ぼうとしたりとか話題満載で2、3ヵ月で「スキャンダル爆発」で都政混乱
  小池がなれば、自民党東京都議会サル軍団(ボスは内田茂)や五輪利権の(?)森喜朗と命がけの闘いが始まり都政混乱
 この中で、まだしも未来に希望が持てる「都政混乱」は、ジャンヌダルク老嬢が活躍するものだけである。
 都民以外は、3人のうちの誰がなっても、腐敗都市が盛大に燃え上がる「劇」を観客席に座って見ることができる、ということ。都民には火の粉が飛んでくるかもしれないけれども。












NHK室蘭 愛人クラブ その2




 昨日、室蘭大橋や水族館やイタンキ浜を見物し、NHK室蘭放送局の周辺を歩いたりして、室蘭旧市街をじっくり見てきたけれども、この旧市街(名前は付いていないようだけれども、半島のように突き出している部分が旧市街、現在発展しているのは東室蘭を中心とした新市街である)は、山や坂や丘が多くて、佐世保の街を思い出させる。垂直方向に山や坂や崖があり、視野が開けない。佐世保の不思議な精神空間を生んだ街並みと、とても良く似ている。かといって、室蘭に猟奇殺人事件が多発しているわけではないけれども。
 NHK室蘭も、まさしくそうした山や谷の中に隠れた場所にある。しかも、「何もない」田舎である。少なくとも、東京生まれ東京育ちの「この女性アナウンサー」にとっては、ウンザリさせられるような退屈な町だったのだと思う。


作成途中

2016年7月23日土曜日

サイゼリアで孤食するのは(私も)最底辺層だったとは 吉田はるみ 小川敏夫



http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51633858.html#more

http://www4.dpj.or.jp/member/6174/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%99%B4%E7%BE%8E


小川敏夫の秘書って・・・・それだけで、もう終わっているような気がするけれども。



グーグル 小川敏夫 市毛良枝

https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%95%8F%E5%A4%AB+%E5%B8%82%E6%AF%9B%E8%89%AF%E6%9E%9D


小川敏夫は小沢済州島一郎マンセーの郷原信郎と親しい。小川も小沢マンセーなのだろう、こんな発言もしている。ウィキより。

慰安婦問題[編集]
第1次安倍内閣の2007年3月5日、参議院予算委員会でアメリカ合衆国下院で決議されたアメリカ合衆国下院121号決議に異議を唱える安倍晋三総理大臣に対して、「謝らなければいけない立場なのに 『(慰安婦の)証言は事実無根』と言っても国際世論は賛同しない」と批判した[14]。

 その他、コリアンマンセー活動をあれこれやっているようである。日本人のためではなく、コリアンのために働く民主党・民進党、そして小沢済州島一郎の仲間、らしい活躍ぶりである。

 この小川敏夫の長年の(?)秘書が、サイゼリアで食事を取る貧民の気持ちがわかるのは、処女は病気といって「淫行」を企てた鳥越俊太郎だけであると「応援」した吉田はるみ。
 クズたちはこうして新たなクズをこの世に送ってゆくのだろう。


 市毛良枝には、つくづく男を見る目がなかったんだ、と結論づけるしかない。


▲:富士山麓に別荘を持っていて、女子大生を誘い込んで、アフラックのがん講演で1回100万もらえて、それだけで5000万稼いだと噂される鳥越俊太郎が、875円でサイゼリアの食事を取る貧民の心が理解できる・・・・・って、この小川敏夫の元秘書の吉田はるみって、真正のバカなの?



▲:上野駅近くのビルの2階にあるサイゼリアでときどき食事をするけれども、がんサバイバーの与太話(?)で100万円(?)簡単に貰えるような勝ち組の鳥越俊太郎が私の気持ちを理解してくれるとは・・・・思えないけれども。(PS 東京に出たときには美術館の近くにある上野のホテルに泊まることが殆どなので。)



参照
http://netgeek.biz/archives/78899

 万が一鳥越が当選したなら、アフラックとの癒着や金のやり取りがどんどん暴かれることになるだろう。アフラックは社長から社員まで、一同うちそろって鳥越の落選を神に祈っていることだろう。


PS すいません、見栄張ってました。875円でのサイゼリア・ワインパスタサラダなんて滅多に食べません。いつもは470円の「みよしのセット」で十分幸福感に浸っています。64歳のときに女子大生に淫行を迫った(上智大学の方はまだ報道されてませんけど)鳥越先生には・ベンツをとっかえひっかえ乗り回している鳥越先生には、470円のよみしのセットなど無縁でしょうけれども。



















話題の室蘭NHK見物 その2 イタンキ浜 美砂子海岸







話題の室蘭NHK見物 その1

 今日は登別や室蘭までドライブして、いろいろなものを見物してきた。

参照
NHK室蘭放送局の局長のブログ








作成途中

共産党支持者の3割が小池百合子支持 バカチン志位和夫のもとダメになってゆく日本共産党

共産党支持者3割が小池百合子支持の衝撃
ニュースソクラ 7月22日(金)12時20分配信

東京都知事選挙、宇都宮降ろしに反発も
 小池百合子、鳥越俊太郎、増田氏の三つ巴となっている31日投開票の都知事選。今週に入って報道各社の序盤情勢分析によると、小池氏が優勢、あるいは小池、鳥越の競り合いとなっている。

 なぜ、組織の支援が得られなかった小池氏がリードできたのか。保守層をうまく取り込んでいることに加え、野党支持者が、野党統一候補の鳥越氏ではなく、小池氏支持に回っているからだ。たとえば、産経新聞の7月18日の序盤情勢調査では、民進党支持者の2割、共産党支持者の3割もが小池氏支持と回答している。

 各陣営の分析によると、最大の要因は、宇都宮健二氏に立候補取り下げさせたこと。前回の都知事選では共産党は宇都宮氏を支持していただけに、告示直前での野党内で候補一本化への反発がでているという。「小池さんの思い切りがいいし、宇都宮さんを強引におろしたのが頂けない」という声が小池氏を支持する革新系支持者から聞こえてくる。

 政策面でもリベラル色を出していることが、野党支持者を取り込めている模様。小池氏のウェブサイトを見ると、「東京大改革宣言」と銘打ち、「納税者・生活者のための政治 まじめに働くあなたのために」と打ち出している。医療・子育て・福祉の充実や地方分権などリベラル派に歩み寄った政策が目立つ。

 衆院選でも中選挙区時代、「マドンナ旋風」を引き起こした土井たか子氏及び社会党の牙城である旧兵庫2区(西宮・芦屋)で土井氏に次ぐ第2位で衆議院初当選を飾っている。小池氏は「左寄り」の票を切り崩す方法をよく知っていると解説する人もいる。

 支持層を切り崩されている形の鳥越陣営はというと、民進党は蓮舫氏、共産党は吉良佳子氏など人気女性議員を応援演説に連日投入し、組織票のテコ入れに必死である。

 ある都内の共産党の幹部は、「3割もの我が党の支持者が小池支持とは驚いた。周囲に伝えていく」と動揺を隠せない。一方で同党の選挙対策本部は、「選挙というのは、その日まで結果がわからない。3年前の参議院選挙でも京都では共産党は圏外と言われていたが、最後はひっくり返った。『小池さんを支持する』という支持者には、子育て政策を国会でどれだけ取り上げたのかといった話をして説得していく」と巻き返し戦略を練るが、危機感を募らせているのは間違いない。

 鳥越陣営全体のムードは、「まだ序盤戦なので、組織票を固めていけばひっくり返せる」と追い上げを狙う。

 マスコミ各社の世論調査では、小池氏がややリードで、鳥越氏が追うという分析が大勢だ。組織のない小池氏は終盤で不利になるという見方が一般的である。このまま終盤まで逃げ切れるのか。

■角田 裕育(ジャーナリスト)
1978年神戸市生まれ。大阪のコミュニティ紙記者を経て、2001年からフリー。労働問題・教育問題を得手としている。著書に『セブン-イレブンの真実』(日新報道)『教育委員会の真実』など。







2016年7月18日月曜日

天使はなぜ堕落するのか 八木雄二 (2009) その3

P510~
 トマスの神学で存在の上位を占めるのは、抽象存在であり普遍存在である。ここで繰り返し注意しておかなければならないのは、「抽象存在」はけして概念ではない、ということである。つまり心に懐かれただけの存在ではない。むしろ知性のみが把握できる精神的で優れた存在である。
 もっとも純粋な抽象存在は「エッセ」であるといわれる。感覚を刺激する具体的な事物存在は、その矯小化した姿である。したがって感覚的な存在においては、エッセは、そのもっとも内奥に密かに見いだされるのみである。知性はまさにそれを、抽象を通して精神のうちで現実態にもたらすことができる。それゆえ知性にとってだけは、エッセは、存在することの「現実態」なのである。
 トマスは、このエッセこそ神の存在であると見なす。すべての被造物は、このエッセを分有して(言い換えれば、矯小化して、あるいは、減退させて)存在している。トマスにとって神学は、その神を観想することによって、世界を理解する学問である。なぜなら、世界はエッセを得ることで存在するからである。
 それに対してスコトゥスの神学では、存在における最高存在は無限の神であり、その下位にあるのは有限の被造物である。ここで無限とか有限といわれているのは、「内的固有の様態」といわれる。それは個々の存在がもつ「個体的存在の完全度」における無限であり、有限である。
 スコトゥスにおいて「抽象性」は概念世界のことがらに限定されている。したがって、スコトゥスが言う存在の完全度は、けして抽象性の高さではない。それゆえ、スコトゥスにおいて神はけして抽象存在ではない。
 なおかつ、被造物のなかでの精神的能力の高低は、存在の完全度の高低とはかならずしも一致しない。存在の完全度は個別的であって、種のなかで一定ではないので、存在の完全度の高低は、個々のものが神に近いか遠いかを理解させるのみである(存在の完全度はむしろ個々のものに与えられている神の恩寵の深さである)。それは知性能力の高低とは別の尺度なのである。
 スコトゥスの神学では、意志の主体的な決定力(自由)が最大限度に認められる。知性は対象の状況を理解させるが、行動に結びつく決定、判断をするのは、知性ではなく意志であると見なされる。それゆえ、トマスにおいては神学は観想的な学問、すなわち、安定した恒久的な神の真理を見つめようとする科学であるが、スコトゥスにおいては、人間の誤りうる意志を正しく導くために、神の認識を提供する実践的学問とされている。
 そのためスコトゥスにおいては、自由意志や偶然が強調される。しかもスコトゥスによれば、個別存在は普遍存在が楼小化したものではない。むしろ個別存在こそが真に「一つ」といわれるものである。それに対して抽象的な普遍存在の一性は、実在性として認めるべきであっても、「より小さな」一つ、つまりこちらのほうがむしろ「楼小な一つ」なのである。
 こうしてスコトゥスにおいては、個別存在の完全性は、普遍存在の完全性と比較して、より高いものとなった。言い換えると、抽象や普遍は概念的なものとなり、実在を映すかぎりでの実在とされ、実在性を少なくした。
 認識能力についてもスコトゥスは、個別存在をとらえる「直観」を、「抽象」より完全な認識能力として登場させる。トマスにおいては、「抽象」こそ神という不変の抽象存在をとらえる高度な認識であった。
 これらを対照させて考えてみれば、どれほど大きな視点の違いが両者の間で起こったか、はっきりとわかるだろう。一三世紀の後半から一四世紀のはじめにかけて、哲学は意外に大きな歩幅で進んでいたのである。
 何人の天使が針先で踊れるか
 さて、ここで、おそらく読者にとってもっとも興味深いテーマに入ろう。中世哲学を拓植したことば、「何人の天使が針先で踊れるか、そんなことをスコラ哲学者どもは真剣に議論していた」という近代からの批判である。
 じつをいえば、わたし自身は、この鎔接に最近まで興味をもてなかった。そのいちばん大きな理由は、中世哲学研究の観点では、天使論はあまり問題にされていないからである。
 じっさい中世哲学の研究のなかでもっとも多いトマス神学の研究論文をのぞいてみても、天使論に間しては見るべき論考はほとんどない。トマスの主著『神学大全』を見ても、大した考察は見かけない。したがって、「真剣に議論していた」というのは、どこかの酒場で哲学好きが集まって議論していた情景が、何かの間違いでつくりだしたものだろう、くらいに思っていた。




P518~
 またスコトゥスは、天使については、このほかの問題でもすべて可能性のなかで論じている。つまり現実にこれこれだ、と結論しているのではなく、それも不可能ではない、と結論する。
 こういう結論の出し方は案外スコトゥスの常道で、前に触れた聖母マリアの無原罪説についても、そういう議論をしている。
 しかし、「可能である」という主張は、現実に可能なことであるから、やはり現実化することがらと受け止められる。したがってこの問題でも、スコトゥス自身は学者の本分を守って可能性までしか言わないが、ほかの学者はスコトゥスが現実について主張していることがらとして受け止めた。
 真空中の運動についても同じである。スコトゥス自身はその可能性のみを認めているのであって、それが現実だと言っているのではない。しかしスコトゥス以後は、真空中の運動が現実に可能であると理解された。
 スコトゥスの論述は仮定を含んでいてわかりにくい。したがって、細部については触れることができないが、ここは最初の一群の問題に戻って、天使が針先のような場所に何人いられるか、という問題を見ていこう。
 スコトゥスのテキストを繰ると、編集者の親切な註もあって、天使が針先にどれだけいるかの問題は、ある歴史とからんでいることがはっきりする。そもそもこの問題は、トマスまでは特別に問題になっていなかった。
 トマスは天使の場所論として、「そのはたらき」がある場所に天使はいることを主張しているが、
これは古代の教父(キリスト教会の権威学者)ダマスケヌスの意見から取られたものである。つまりトマスは伝統的な立場を主張しているだけである。
 ところが、トマスが死んだ翌年になって、パリの司教エティエンヌ・タンピエが二I九項目の非難すべき命題を挙げたとき、そのひとつにトマスの命題を挙げたのである。有名なて一七七年の禁令である。タンピエはその命題を根拠にして、はたらきがなければ天使はいない、と結論されるなら、この命題は教会の教えに反する、とした。つまり天使が、はたらきをもたなくとも実体として存在している状態を認めなければ、それはキリスト教会の教えに反する、ということである。
 こうして禁令が出たことで、この問題はトマス以後、にわかに大きな問題になった。この禁令をパリ管区内の問題として処理しようという動きもあったようだが、異端は管区司教の権威だけの問題ではなく、教皇の権威によるものである。そのため「ある大学のうちで厳粛に非難されている」と、スコトゥスが報告している。おそらくパリ大学のことだろう。
 とはいえ、場所の問題は、きわめて複雑怪奇な問題である。アリストテレスは『自然学』第四巻でそれを詳細に論じている。
 アリストテレスによれば、あるものが存在する場所(位置)とは、それがほかのものと接している局面である。アリストテレスの範時論にしたがうと、何かがあるとき、つまり実体があるとき、それにともなって実体は位置をもつ。実体がなければ、つまり何かがなければ、何かのある場所はない。それゆえ、場所は実体に付帯する偶性である。実体が消滅するとき、実体の場所も消滅する。
 しかし実体が動くときも場所は消滅するのか。
 たしかに、実体がある場所から別の場所に移るとき、実体の場所は替わる。最初の場所が消滅して、

天使はなぜ堕落するのか 八木雄二 (2009) その2

P308~
 中世においては、もっとも実在的な存在はもっとも抽象的な存在であり、それが神の存在である。そこから抽象性が下がるにつれて、実在性も減退していく。質料が混じる段階では実在性もそれに応じてあやふやになる。感覚がとらえることができる存在は、この種の存在であり、人間知性が抽象化をほどこすことができる存在も、この種の存在である。
 ただし人間知性は、それ自身のはたらきによって感覚を刺激した存在に抽象化をほどこすことで、自分たちの存在の段階よりも上を目指して「存在」を受け止めることができる。つまり神自身のエッセにいくらか近いエッセ(つまり実在的な存在)を、人間知性は感覚を通してであってもとらえることができる、とかれは考えていた。
 一方でトマスは、アリストテレスにたいして忠実である。けして感覚表象への回帰を忘れない。つねに感覚という抽象の土台に戻って、真偽の判断を行うように主張している。すなわちトマスは、エッセを抽象存在であるとする立場を崩さず、他方で、エッセが現れる真偽の判断において、感覚表象への回帰を主張する。
 いうまでもなく、トマスによれば、エッセはもっとも共通的である。したがって、それはたしかに知性的存在であるだけでなく、感覚存在でもなければならない。とはいえ、存在レベルの上下関係という秩序を考慮しないのでは、神や天使を上位にいただく中世哲学の世界は成り立たない。したがって、トマスもそれを否定することはできない。しかし、アリストテレスを可能な限り取り入れるトマスは、上位の存在に抽象を通じて触れるだけで十分だとはせず、感覚表象への回帰を常に要求したのである。かれがそのようにした理由は、たんなるアリストテレスヘの忠実さなのか、それとも、エッ
セの共通性の強調なのか、わたしには不明である。
 なお、一般的に研究者の間に見られる見解によると、この感覚への回帰を重視するエッセの判断の思想は、感覚に活き活きと現前する今現在の「在る」を、トマスがとらえようとしている証拠であると考えられている。なぜならトマスによれば、エッセは本質にたいして現実態であり、また「存在することの現実態」と呼ばれるからである。トマスのこの言葉は、たしかに、エッセは本質が「存在する」ことにおける活き活きとした現在であり、また、ものが実際に存在している現実を意味している、と解釈できるように見える。
 しかし、トマスにおいては、神(エッセそのもの)は現在のみならず過去も未来も超越している。この時間論では、今現在の瞬間を重視する側面は見られない。それゆえ、トマスにとって、やはりエッセは時間をも超越する抽象存在であることはほぼ間違いない。「現実態」というのも、つねに抽象を通して知性にこそとらえられる「はたらき」であると考えられるべきである。
 トマスによれば、感覚は時間が経過することに本質的に支配されている。他方、知性が本来とらえるものは、時間を超越したものである。したがって感覚が活き活きと捉えているものは、現実態ではなく、むしろ知性にとっては可能態的なものである。そして、知的存在こそが神に近い、とトマス自身は考えていたのであるから、そのトマスによって、「活き活きと」感覚にもっとも近くとらえられる実存が「現実態の現実態」ともいわれるエッセのはたらきだ、ということはありえない。
 トマスのラテン語テキストの頁を繰っていると、「ratio(ラチオ)」ということばに頻繁に出くわす。このことばは、じつは翻訳者を悩ますことばである。というのも、現代の読者は研究者も含めて、新プラトン主義的世界観には不慣れだからである。したがって、どうしてもそれを前提しないことばで訳さなければ読者に読んでもらえない。そのため「概念」とか、「根拠」とか、あるいは、理性的根
拠の意味で「理拠」と訳す。
 しかし、じつのところトマスは、感覚的存在の上に、知的存在の領域を複数見ているのである。そして目に見える世界の存在は、すべてその根拠を、それより上位(ヒ質)の存在のうちにもっている、という新プラトン主義の世界を背景にして考えている。
 たとえば人間は、人間が存在しているよりも上位の存在のうちにその根拠がある。けしてその根拠は、同じ地平のうちで知性のうちに写されて、概念となるものではない。つまりその根拠は、じつは知性内の概念ではない。たしかに知性内の概念は、上位の存在のうちにある根拠をある仕方で写している。なぜなら能動知性のはたらきによって、抽象された形象は、上位の存在のうちにある根拠を反映するからである。つまりラチオの中味の実質は、たしかにわたしたちにとっては概念である。
 しかし、すでに述べてきたように、それ自体は概念ではない。トマスによれば、それは上位、ないし、上質の存在なのである。言い換えると、抽象存在という根拠となる上位物が、感覚には把握されないが、現実に存在するのである。このように考える立場が、そもそもの〈実在論〉である。それゆえ、トマスの文章のうちのラチオを単純に「概念」と訳していくと、文脈がしっくり来なくなる。そして、ついでにいえば、そうであるがゆえに、普遍論争の説明に「概念実在論」という立場を設定して説明するのは、事態を混乱させるだけである。少なくとも近代がいう「概念」というものは、中世の間では、普遍論争の議論のうちに出てこない。
 じっさい、近代では英語の「concept」、ラテン語の「conceptus」は、ふつうに「概念」の意味で使用されるが、中世のトマスではほとんど「赤子を身ごもった」、すなわち「懐胎」の意味でしか使用されていない。したがってトマスにおいては、現代の通常の「概念」という概念が、まったくといってよいほど見受けられないことに注意しなければならない。
 したがってまた、普遍論争を説明するときに、実在論をいろいろに説明するのは混乱を生じやすい。たとえば、言葉のもつ普遍性をそのまま上位の存在に認めるのが、〈極端な実在論〉であるとすると、本来の普遍性は知性のはたらきから来る付随的な性格と認めて、言葉のもつ意味が、普遍性抜きに上位の存在のうちに在ると考えるのが、ふつうの、ないし、〈中庸的実在論〉である。
 しかしこの立場でも、言葉のもつ意味を、かならずしも「概念」と考えているのではない。この通常の〈実在論〉を、近代的な文脈で「概念実在論」であると説明するなら、中世哲学は無用の混乱に陥るだけである。
 たしかに、カンタベリーのアンセルムスの神の存在証明は「概念」から「実在」へ進む証明である。しかしこの場合も、「実在」は感覚的存在ではなく知性的存在である。神はけして感覚的事物が「在る」といわれるのと同じ意味で「在る」ということではない。神が「在る」といわれるのは抽象存在においてであり、それゆえに、アンセルムスにおいても神の「実在」は「エッセ」(esse)と表現さ
れるのである。
 ところで、すでに触れたように、知性は能動知性の特別の力「抽象力」によって、知性的存在を認識する。したがって知性が得る「概念」は、上位に存在する知性的存在の写しであり、いわば「影」のようなものである。すなわち、知性がもつ「概念」は、それが真なるものであるかぎり、上位の存在である知性的根拠の「写し」であり、「意味」である。それゆえアンセルムスの神の存在証明は、この「影」から、その「存在」を証明しているのである。けして作為的概念から存在を証明しているのではない。
 中世哲学の研究はまだまだ謎だらけである。無用の混乱は避けなければならない。
 わたしが理解するかぎり、トマスは存在(エッセ)について、それをあくまでも知的な対象として考えている。そしてトマスは、それとわかるようにはっきりと述べていないが、おそらく、「神のエッセに貫かれた知性が、信仰をもつ知性である」と考えている。
 言い換えると、神について「在る」と判断する知性だけが、信仰をもつ知性であり、そのような知性は、自余のことについても、感覚と知性を通して、神が被造物に与えている存在に導かれ、神の存在に貫かれて、正しく判断することができる、と考えているのである。
 中世に生きたトマスにおいては、知性がとらえる存在は、大筋ではこのような抽象存在である。
 ところが現代人にとっては、抽象存在は疑いようもなく人間知性がつくりだす「概念」でしかないので、トマスのいう「エッセ」も、その抽象性に着目すると、どうしても「概念」にしか見えてこないのである。
 しかしながら、繰り返しになるが、概念的に考えるのは、中世哲学の背景となっている新プラトン主義を考慮に入れない解釈であり、まったくの時代錯誤である。中世人には、目に見えない上位の存在が、形而上学的にたしかに存在していると考えられていた。知性の尊さはそれを捉えることにあると信じていた。
 同様に、トマスのエッセを「概念」であると見なすことも、エッセの実在性を見失う解釈である。それは実在論の立場に立っているトマスを、オッカムと同じ唯名論(普遍的概念はすべて言葉の世界だけのものであって、実在性は主張できないという主張)の立場に立たせる結果になりかねない。
 なぜかといえば、エッセは本質にたいして現実態にあるから、本質は逆にエッセにたいして可能態にある。もしエッセが概念であるとしたら、エッセより可能態にある本質の実在性がますますあやしくなる。このような理解は、トマスにとっては断じて認めがたい。本質にも十分な実在性があり、それゆえに世界の本質について神学者は実在的に論じることができる。




P342~
 とにかくオリヴィにとって、「神の存在」は、不完全性のない完全な認識根拠であり、それは個別存在ではなく、最高度の「抽象存在」である。したがって、オリヴィが神について語るとき、個別性ではなく、反対に抽象性が、完全性ないし存在上の高位性と緊密に結びついている。それゆえ、抽象性から存在の高位性をはぎとる一面は、オリヴィにおいては限られた一面であって、一般的になっていない。
 神は最高度の抽象存在である、という定義は、神が第一の存在であることからして、中世哲学においては、もっとも重視しなければならない定義である。オリヴィはこの種の認識根拠においては、無は不可能であると主張することによって、アンセルムスの神の存在証明に対して全面的に賛同する。
 オリヴィは、つぎのように神の存在証明を進める。
 まず自明なものを三つあげる。一つは、基礎概念ともいえるもので、それなしにはほかのものが理解できない種類の根拠である。たとえば、「存在」(ens)とか「関係」(habitudo)などである。これはのちにドゥンス・スコトゥスが「端的に単純な概念」と呼んだものである。
 もう一つは、知的な人々が専門知識を構成するために知っている基礎命題である。「点は部分をもたない」とか「精神的なものは場所のうちにない」などである。これはのちにドゥンス・スコトゥスがトマスその他の哲学者とも共同して「自明な命題」と呼ぶものである。
 もう一つは、命題のなかのことばが示す概念が十全に理解されるとき、はじめて認識される命題である。つまりそれ自体としては自明であるが、その自明性を理解するために多くの探求を必要とするものである。「神が存在する」(Deus esse)という命題は、その種のものである、とオリヴィは言う。
 オリヴィはこのように、神の存在がそれ自体では自明でも、神を示す認識根拠は十分に探求しなければ、その自明性がわたしたちには明らかにならないと主張する。つまりすでにアンセルムスの神学について述べたように、神の存在はまず信じられ、その信仰内容が哲学的に吟味されるのである。その吟味のためにオリヴィが指示する認識根拠(ラティオ)が、「最高度に抽象された認識根拠」である。かれはその認識根拠を通じて、神の存在を探求する。なぜなら、最高度に抽象された認識根拠こそ、神について述語される完全性の概念だからである。


P399~

 したがって、トマスにおけるエッセとエッセンティアの類比は、とりあえず次のように考えること
ができる。
 まず感覚的なもの(質料)がある。人間はそれを感覚で認識することができて、それが「在る」と判断することができる。この場合、本質が感覚的であるから、その存在も感覚的である。つまり現実にその対象が存在しているのを見て、あるいは感じて、わたしたちはその存在を判断する。
 つぎに普遍的なもの(形相)がある。人間は普遍的なものを直接とらえることはできないから、感覚からの抽象でその本質を認識する。そして類比にしたがって、その存在も、その本質を含んでいる感覚的な場面から抽象してとらえることができるはずである。
 トマスにおいては、抽象的本質に関する存在であっても、感覚からの抽象であるので、人間の認識能力の範囲内にあり、その[在るか無いか」を、感覚表象への立ち帰りを通して判断することができる、と考えられている。

 つまり、わたしたちは人間や馬を認識する。すでに述べたように、トマスによれば、知性はそのとき人間や馬の根拠となる存在を、感覚的存在より上位の存在のうちに捉えている。このとき、感覚に現れている具体的な個別の人間や馬は、「人間」や「馬」の本質を根拠として生じていると考えられる。それゆえトマスによれば、具体的な個別者の存在から、知性は「存在」を受け取り、根拠となる本質の存在を判断できる、ということらしい。

 しかし、ここでトマスの言うことはわかりにくくなる。すでに述べたように、トマスにおいても、新プラトン主義の存在観が背景にあると見なければならない。知性存在は一般に抽象名詞として表現されており、抽象化され、具体性から切断されて理解されているかぎり、本質も「エッセ」といわれる存在も、いずれも具体的な感覚の地平にはない、と見なければならない。これが原則である。
 したがって、抽象化された本質と一致できる存在は、「エッセ」といわれる存在であって、感覚の地平に見いだされる「在るか無いか」ではないはずである。そうであれば、感覚に立ち帰る道は、そ
の存在を見いだす道ではない。  、
 ところがトマスは、感覚に立ち帰ることでそれが見いだされ、判断できる、と言う。百歩譲って、結果があれば原因があると結論できるという理屈を認め、上位の原因存在を、結果としての感覚存在から推断することが、トマスのいう「判断」であると考えても、わかりにくさは残る。そもそもそういうふうにトマスが考えていたとしたら、トマスの説明は不備が多すぎて不器用きわまりない。つまり哲学者としては幼稚だということになる。
 しかし、こんなことを言っていると、「お前はトマスが読者に想定している知性のないやつだ」と言われそうである。ここは適当にオブラートに包んで説明してみることにしよう。
 あえていえば、感覚的なもの(質料)における本質と存在の関係が、普遍的なもの(形相)の本質と存在の関係に類似していると見るのが、トマスの存在の類比である。これを使って、普遍的なものの存在を、感覚的なものの存在から判断するとき、類比による知性の判断、すなわち「在るか無いか」というトマスにおける判断のはたらきがある。
 さらに、いささか驚くべきことに、天使や神のように、その本質理解に際して感覚的なものからの抽象ができないものの場合、トマスによれば、その本質認識は質料性の「否定」や偶然性の「否定」によってしかできないが、にもかかわらず、感覚的なものからの類比を通じて「在るか無いか」の判断ができる、と言うのである。
 トマスはそれについて説明してくれていない。抽象存在のレベルにおいては、認識と判断の関係がどういうものなのか、まったく判然としない。
 わたしたちの通常の事物の理解においては、「在るか無いか」を判断する場合、その主語となる事物について何らかの認識をもたなければならない。主語が特定されない状態では、「在るか無いか」と問われても、「何か在るのか無いのか」疑問が生じるだけである。
 トマスは、明らかに神や天使については、その「何であるか」がとらえきれず、何らかのものを「神」とか「天使」と「わたしたちが名付けている」という事実にしか言及しない。じっさいそれらは否定的にしか認識できないとトマスは言っているのだから、トマスによれば、事実上、神も天使も「無」なのである。ただ「わたしたちが神と呼び、天使と呼ぶもの」が、確定した概念なしに主語に置かれて、「在るか無いか」の判断がトマスにおいて論じられている。


 しかし見方を変えれば、トマスの考えは、アンセルムスの神学伝統に忠実だと言うことができる。

 アンセルムスは、信仰の権威を括弧に入れて、信仰内容の真理性を哲学的吟味にかけることを宣言した。この場合、アンセルムスは信仰の真理性を否定しているのではない。ただ真理であることの根拠を信仰に求めるのを一時棚上げし、信仰内容となるものについて、それがなぜ真理であると言えるのか哲学的吟味を行い、真理であることを信仰の権威なしに、可能な限り合理的に証明しようと努力したのである。それが「神学」と呼ばれるものである。したがって、それは同時に信仰についての哲学である。中世哲学が神学であると同時に哲学であるのは、そういう理由による。
 ところで、キリスト教信仰のはじめに来るのが、「神が存在する」である。すでに述べたように、人間の側からの追求の結果として神が見いだされるのではない。神のほうから神の存在が追ってくるのが、キリスト教における「信仰の要求」なのである。これを諾するとき、人はキリスト教信仰をも
つことになる。        ゾ
 したがって人間は、神がどのようなものかがわかったうえで信仰をもつのではない。わからないままに信仰をもち、そのあとになって、神の存在について思考するのである。
 トマス・アクィナスは、キリスト教信仰がもつこの順序を忠実になぞる。それが何であるかわからないままに「神が存在する」という判断が成立する。そしてこの判断が間違いではないことを証明するために、トマスは五つの「神の存在証明」を提示する。すなわち、トマスの、感覚されるもの(運動)にもとづく神の存在証明は、その五つの証明のうちで第一の証明であるが、まさに主語について語らないままで、存在の判断ができることの証明になっている。


P419
 このプラトンの考え方は、その後、キリスト教思想と合致した。すなわちキリスト教徒にとって、父なる神の時代は旧訳の時代であり、はるかな過去の時代であった。
→ 誤植 旧訳→旧約


P447~

 すでに触れたことを繰り返すが、スコトゥスはトマスの神概念「存在そのもの」についても、それはそれでよいとしても、「無限の」を付け加えたほうがよりよい、という言い方をする。すなわち、個別的指標となる完全性の度合いを付言することを勧めている。
 こうしてスコトゥスは、神を哲学的に叙述する際、哲学史上はじめて、「唯一の抽象」存在である
ことをやめて、「唯一の個」の存在とした。これは中世後期にあらわれた重大な変化だった。
 それまで神に至る道筋は、知性の抽象作用の限界を追究することであった。知性によってしかとらえることのできない抽象の道筋こそが、より高度の存在をたどる道筋であり、神はその究極にあるはずのものであった。そのような想定が、新プラトン主義が想定している存在の秩序と重なっていた。
 新プラトン主義において、存在は高まるにつれて抽象的で普遍的な存在となり、他方、低きに進めば個別者に分かれて、はては善美な形相を失った無秩序な多数のもの(個別者)が見いだされる。この秩序において最高の存在は善にして一であり、その意味で-つまり普遍性、抽象性の意味で神はもっとも単純にして完全なものでなければならなかった。
 それがスコトゥスにおいて、神は被造物と同様に、個的存在となったのである。
 たしかにスコトゥスにおいても、神は単純にして完全でなければならない。しかし、それは多数の普遍的完全性を述語できることと矛盾することではなかった。なぜなら、スコトゥスにおいて完全性は、個別性や普遍性とは無関係の別の性格として理解されたので、端的に完全でありながら、普遍的ではなく個的存在であることが、何ら矛盾なく受け止められるようになったからである。それゆえスコトゥスにおいて、神は明確に個的存在であることが宣言されえた。
 これは中世後期に重大な変化があったことを意味している。なぜならこの変化は、見方を変えれば、知性が見いだす抽象性や普遍性が、感覚がとらえる個別性と比較して、絶対的な優位性を失ったことを意味するからである。
 なぜといって、最高の存在である神が抽象的存在でないとなれば、完全性の秩序は普遍性とは別のことがらということになるからである。存在の秩序において最高のものであっても、完全性の秩序と普遍性の秩序が別であるなら、存在のどの秩序においても、それらは別であろう。
 そうであるならば、論理の地平でより抽象的であることは、より普遍的であったとしても、価値の基準でより優れているとかより完全であるとかいうことはできない。ところでアリストテレスによれば、科学の対象は普遍的対象である。それゆえ科学の対象は、価値の意味、すなわち、完全性の意味を必然的にもつことはもはやない、と考えられる。つまり科学は何か優れた存在を追究しているのではなく、むしろ価値に対しては中立的に、あくまでも普遍的な真理を追究している、ということになる。
 したがってスコトゥスの哲学は、学問ないし科学が追究する普遍的対象は、「完全性」と呼ばれる存在価値に対して中立であることを明確にしはじめたといえる。
 アリストテレス以来、あるいはプラトン以来、哲学において「普遍性」の秩序は「完全性」の秩序と重なっていた。哲学を含む科学が普遍性を追究するとき、それは即、完全性の追究であることが保証されていたのである。哲学者は普遍的善を追究し、普遍的一を追究し、普遍的存在を追究した。それは即、最高善の追究であり、最高に完全な神の存在の追究そのものであった。
 たしかにスコトゥスにおいても、普遍的善の追究や、普遍的一の研究は神の存在を追究することになりえる。しかしスコトゥスにおいて、神自体は個なのである。スコトゥスはこうして、普遍の追究が完全性の追究であるという素朴な信頼に、くさびを入れた哲学者となった。


P480
 歌唱の世界にもそうしたことがある。だれも近づかないほど、うらさびれた風情の年寄りを見ていたら、その口から魂をゆさぶる歌があふれ出てくる。そんなとき、聞く者はいきなり自分の体のなかの脊髄をつかまれるような衝撃におそわれて動けなくなる。
▲:脊髄をつかまれるような衝撃、という表現。そんな妙な表現をラフカディオ・ハーンはしているのだろうか? 『心』のうちの「門つけ」



P496~
 スコトゥスは神の存在証明において、原因は時間系列にそってはたらくものもあるが、同時性において、上から下まで、一瞬のうちにはたらく原因の系列もあって、これを縦の原因関連と見る。そして、時同系列にそってつぎつぎと原因が影響を与えて事象が生じていく側面は、横の原因関連と見て、明確に二つを区別している。
 ところで神の存在証明は、縦の原因関連を遡及することによって行われる。つまり横の原因関連は第一原因にかならずしも到達できないと見なされ、学問的には捨てられるのである。それゆえ、二種類の原因関連が認められていても、スコトゥスは、縦の関連、言い換えれば、複数の原因が上下の秩序をもちながら、同時的にはたらく原因を重視している。
 しかしこのことは、スコトゥスが瞬間のみを時間の実在であると見なしていたことと密接な関連がある。スコトゥスは、アヴィセンナやトマスのように、過去から未来まで、すべての時間が神の前に現前している、とは考えない。神が実在であるのなら、神もまた実在する時間とともに今、現にある、と考えるのである。
 こういうと、神が特定の時間内の存在であるかのように思われがちであるが、すでに述べたように、スコトゥスにおいては、時間は空間のような〈制限〉ではない。「今」のみが「生きた実在の時間」であり、それが残した過去という「あと」や、未来という「予想」は、実在ではなく、あくまでも知性が対象化した「仮想」にすぎない、という見方である。
 これはいうまでもなく、アウグスティヌスの時間論にその元がある。スコトゥスは面白いたとえを語っている。大地のうえに杭を立てて縄で円を描く場面を想像するように言ってから、つぎのような説明をする。
 杭に結んだ縄を張って、その先につけた棒で円を描くとする。縄を張った棒が地面を引っ掻いた跡は、円を描いていく。しかし、それはあくまでも「跡」であって、今現在の瞬間にあるものは、中心の杭と、縄によってそこから一定の距離をたもっている棒だけである。
 もし現にあるものが棒のある一点だけではなく、棒が描く円の全体が中心の杭に現前している、と見れば、過去から未来までの全時間が神に現前している、と考えられる。これはトマスやアヴィセンナの見方であった。スコトゥスはこのような立場を捨てたのである。
 真に実在しているのは、中心の杭に対してある棒のように、今現在のみである。この見方は、かれが「瞬間的同時性」を真の実在と見なして、過去となった世界や、未来にやってくるであろう世界を実在とはみなさない考えをもったことを意味している。
 じつは、これはきわめて重大な変化である。すでに述べたように、スコトゥス以前には、すでに起きたことは、もはや誰にも変更を加えることができず、事態が決定して変わることがないことから、確実な真理とみなされた。言い換えれば、必然的真理とみなされた。ところで、古代哲学の代表であるプラトンのイデア(イデアは真理の姿・形である)は必然的真理である。それゆえ、イデアについて語る場合、時制としてはつねに過去形で表現されてきたのである。
 さて、周知のように、現代では真理はいつも現在形で表現される。この変化は、おそらくスコトゥスがもたらしたものである。
 スコトゥスは、神を含めてすべては「現在に実在する」という世界観を明確に唱えた。そうなれば、真理は過去に属するのではなく、やはり現在に属するものであることになるからだ。このことはおそらく、原因の関連についても、縦の系列重視と密接に関係している。なぜなら、現在の瞬同性においてとらえられる原因の関連は縦の関連しかないからである。




P504~

 いうまでもなく天使には身体性はない。それゆえ天使には感覚的欲求もないと見なされる。したがって、天使においては意志の欲求は完全に知的なものである。とすれば、天使においては、ただ知性によって知られた対象に応じて、意志の欲求があるのでなければならない。
 とはいえ、すでにアンセルムスを説明する際に述べたように、ストア哲学がもっている心身一元論はアニミズムの一種である。霊的なはたらきも身体性なしには考えられない。したがって、奇妙に聞こえるかもしれないが、スコトゥスも天使を純粋精神の概念でとらえているのではない。天使には感覚的欲求はないが、天使の霊性ないし知性は、それがどういうものであるかは別として、「天使的な身体性」を帯びていると考えられている。
 さて、天使においても人間においても、神を認識することは至福の認識である。至福の認識には至福の愛が起こる。そして本来的には、神は神自身のために愛されなくてはならない。それゆえ、天使の堕落があったとすれば、それは天使が神を誤って愛したことによらなければならない。そして誤りは「節度を超えて」欲求する、ということにあった、といわれる。
 このような天使の堕落の理解は、そもそもアウグスティヌスが示しているし、アンセルムスやトマ
スにおいても基本的に同じである。
 スコトゥスは、意志であれ、感覚の欲求であれ、まずは自分への愛がある、と考えている。そして自分への愛が節度を超えて、自分のために神を愛するという誤りに陥るとき、天使は堕落して悪魔となったと理解する。
 当時の哲学の専門用語を使ってこのあたりを整理しよう。
 スコトゥスは、アンセルムスにしたがって、「肉欲」の愛と「友愛」の愛を区別する。友愛の愛は、対象をそれ自身のために愛する(対象を目的化する)愛であるが、肉欲の愛は、ついつい自分のために対象を愛する(対象を手段に使う)ことになりがちな愛である。わたしたちは自分のもつ愛がどちらの愛であるか明確には認識しないままに、一方と他方を混同して、節度を超えた欲求によって罪を犯す、と考えられる。
 つまりアンセルムスによれば、自分のもつ欲求が友愛に基づく愛か肉欲の愛か、どちらの欲求であるか、心の目にあざやかに区別することができるのであれば、わたしたちは誤ることはないはずであるが、人間的事実としては、いずれもが欲求であることに変わりがないために、どうしても誤りが生じやすい。
 じっさい、わたしたちはひとたび欲求をもつと、自分の欲求に目を奪われて、肝心の対象を見誤ることがよくある。ことに身体をもち感覚的欲求をもつ人間は、その感覚的欲求のために非常に肉欲に引きずられやすいので、対象を節度をもった愛で愛することができない、とスコトゥスは言う。節度をもつことは神からの恩寵を得てようやく可能になるのだ、と。
 かれの真剣な論考を読んでいると、スコトゥスが肉欲的な愛で野卑な生活に陥ってしまっている人たちの間で、懸命に信仰を説こうとしている姿が目に浮かんでくる。信仰によって得られる神の恩寵の助けなしには、人間は何であれ、節度をもって愛することができない、という確信がかれの論考からにじみ出ているのである。
 スコトゥスが天使の堕落に関連して論じている考察から見えてくるのは、以上のようなことである。アンセルムスから引き継いだかれのアニミスティックな精神論は、アニミスティックであるゆえに人間臭いものであり、近代哲学における道徳論にも影響を与えていると考えることができる。